梅原猛研究資料 梅原猛著「『水底の歌』のアポロギアー益田勝実氏に」

梅原猛著「『水底の歌』のアポロギア
ー益田勝実氏に」

岩波書店発行雑誌『文学』1975年10月号より

1975年4月、一冊の本にたいする死刑宣告が行われた。場所は岩波書店発行の「文学」の「文学のぴろば」、裁判長は益田勝実氏、被告は『水底の歌』である。益田裁判長は、断乎として、宣告
した。この本は「黙殺するか、空想的読み物として大いに楽しむか」どちらかであると。つまりこの本は、学問書として無価値であると。

この宣告の波紋は、徐々に、拡がりつつある。雑誌『国文学』の9月号も同じような宣告を行った。この方の裁判官は、大久保正氏であり、判決は同じく「黙殺するか、空想読み物として大いに楽しむか」どちらかだという益田判決と同じ判決であったが、大久保裁判長の方は、益田氏及び伊藤博氏及び桂孝二氏という三人の国文学者が、そういう以上は、まちがいないという理由であった。そして大久保裁判長は法廷で、そういう場所に似合わしくない心情告白をした。

その心情告白によれば、大久保氏は、ある大学で講義をしたら、一人の学生に突然に「『水底の歌』をどう思うか」と質問され、満足な答えができず、しどろもどろに、答えにならない答えを繰返し
た苦い経験をもったという。恐らく大久保氏の誇りがいたく傷つけられたのであろう。

こういう大久保氏の傷ついた誇りを、この書にたいするすぐれた国文学者の批判の論文がいやしてくれる。

桂孝二氏「狭岑島流人説批判―梅原猛『水底の歌』を読む」(「香川大学一般教育研究」第六号)、
伊藤博氏「柿本人麻呂の死―梅原猛『水底の歌』をめぐってI」(神奈川県立教育センター所報「教育と文化」第十号、三回)

と前述の益田氏の小論文がそれである。

 「ともかくも黙殺はよくないと反省を迫られていた折も折、すぐれた三人の国文学者によって梅原説批判が相次いで発表されたのは、旱天に水を得た如くで、わたしのすべての戸惑いを一掃していただけて有難かった。」

大久保氏は、涙をこぼさんばかりに喜ぶ。もう迷うことはあるまい。梅原説は駄目だとはっきり学生にいうことにしよう。

『文学』『国文学』は、いずれも国文学界を代表する権威ある雑誌である。この二つの雑誌で「黙殺するか、空想読み物として大いに楽しむか」と宣告された以上、この書は学問書として死刑宣告を受けたに等しい。永久にこの書は、学界から追放され、書の説に共感するのはもちろん、この書を引用しただけで、その学徒は異端の疑いをうけるにちがいない。

これは一種の異端裁判であり、魔女裁判である。二十世紀の日本にもまだ魔女裁判が生きていたのである。西洋の中世とちがって、この魔女「水底の歌」がいまだに発禁にならず、魔女の著者私がまだ生きておられるのは、益田氏や、大久保氏がたいした権力をにぎっていないことによろう。中世の魔女裁判にしても、必ずしも、魔女が悪かったわけではあるまい。魔女の中にこそ中世の闇黒時代を破る新しい思想の持主がいたと思われる。それゆえに、私もこの一方的な魔女裁判にたいして、アポロギアをのべることにしよう。そういう権利を私はもち、また、そういう義務が私にあろう。

二つの宣告文のうち、大久保氏の方は、弁明が比較的簡単である。大久保氏は、三人のすぐれた国文学者の判断に従って、益田氏の判決に同調しているにすぎないから。この大久保氏が、その判断に従っている桂孝二、伊藤博氏の論文についてはここでふれない。いずれ、近い将来、弁明を行いたい。

ただ、大久保氏はこの宣告で、私の論理を〈聖といわれる人物はすべて悲劇的運命の持主であるという大前提と、人麿は聖といわれるという小前提と、それ故に人麿は悲劇的運命の持主である、つまり流罪刑死者であるという結論からなる〉と理解し、その大前提が疑わしいので、私の説に疑問をもったとおっしゃるが、私の説が、そのような三段論法からなるとしたら、あの千五百枚をこえる『水底の歌』の論証は必要なく、私の著書はせいぜい、その千分の一、わずか一枚半の原稿ですんだはずである。自分で勝手に三段論法をこしらえ、それが私の説だというのでは、どうにも貴任のとりようがない。

しかし大久保氏は、ここで少しはいいことをいっている。

「それ以上に研究者に要請せられるのは歴史の眼であり、科学の方法である。それあることによってはじめてわれわれは科学的な研究者としての主体性を保つことができることを自覚する要があろう。」

その通りである。私も歴史の眼をもち、科学の方法に従って、主体性を保ちつつ『水底の歌』を書いた。それを理解するのに、まちがった判断を著書におしつけるのは、科学的ではないし、まして三人の国文学者の言葉を、梅原説の怨霊ばらいの護符の如く有難がるのは、一そう科学的ではなく、いちじるしく、主体性を喪失したものといえよう。こういうふうでは、また少し頭のいい学生の質問にあえばしどろもどろになるのではないかと心配になってくる。

そこへゆくと益田裁判長の方はちがう。彼は全身魔女裁判への情熱にみちていて、彼の確信は厳の如く強く、彼の宣告はラッパの如く高らかであり、そこにいささかの誤があるうとは思われない。こ
の断乎たる態度は、大久保氏などには、はなはだ頼もしく思われ、 「益田氏のは梅原説のアキレス腱を衝いて鋭い」という感嘆の言葉を発せしめる。

私は恐らく、益田裁判長にはとてもかなわないと思う。しかし、かなわぬながら、ここに、一介の論戦をいどむより仕方がない。論戦には、まず、相手の言葉を正確に理解する必要があろう。私は、大久保氏も、益田氏も、私の著書を正確に理解せずに、批判追放したと思う。私もそういう過ちを犯したくないので、益田氏の宜告文を、一節毎に全文引用して、その当否を考えることにする。

 「国文学者」が魯鈍の代用語に用いられることが少なくない。 自分自身省みて思いあたるふしがないわけでもなく、自嘲的に、居直り的にそういう使い方をすることがある。当節のように、百冊に近い『日本古典文学大系』などというものが出来て、国文学者の文献学的基礎作業、解釈上の問題点・到達状況がほとんど公開されると、外国文学研究者・評論家・哲学者たちが、争って日本古典文学を論じるようになってきた。他の領域での理論操作になれた頭脳で見ると、以前からの国文学者の文学論や考証研究は、見られたザマではないらしい。〕

これが、宣告文の書き出しであるが、私は益田氏の意見とちがう。私は国文学者の文学論や、考証研究を高く評価している。特に、多くの写本の比較対照による本文決定など、とても、素人の手に及ばない。私か、曲りなりにも、万葉集について論じることができるのは、契沖、真淵以来の多くの国文学者の研究のおかげである。その点について率直に感謝したい。魯鈍よばりは、益田氏の思いすごしであろう。あるいは自嘲のポーズかもしれない。しかし私は自嘲はまだよいが、居直りは困ると思う。自ら嘲けることは、発憤努力への契機となることがあるが、居直ってしまっては、もうおしまいである。魯鈍に居直った人間とはまともに議論も出来ない。

 〔転業して日本古典文学を論じる「新国文学者」が輩出した新傾向は、かつて近代文学が国文学の新分野となり、二つの国文学になって以来の、大地すべり現象といえよう。しかも、歓迎すべき現象に違いない。排外一辺倒からようやく足を洗い、足もとの草の根を分けてみる風潮が強まったのは、やはり、着実な日本近代の成熟の動きだろう。しかし、「新国文学者」を擁護する人たちの中に、自分で判断すべき「新国文学者」の到達の評価を、国文学者に、それに叩頭しないのはなぜか、というふうに非難しながら要求することがあるのは、どういうものか。〕

益田氏は複雑な心の持主らしい。うわべでは、新国文学者の出現を喜んでいるようにいいながら、かげでは新国文学者にケチをつけようとしている。いかにも、岩波の「古典文学大系」によってお前らは「新国文学者」になったのだといわんばかりの先の言い方、そして、転業して日本古典文学を論じるなどという今の言葉は、いや味ないい方である。

学問は、その内容によって判断さるべきである。かつて彼がいかなる学問をやったかという点で判断さるべきではない。歴史を見れば、停滞した学問の現状をやぶるのは、いつも広く学問全体に眼をむけた非専門的な学者なのである。

マルクスは、転業して経済学者になったのではなく、ニーチェは転業して哲学者になったのではなく、柳田国男は転業して国文学者になったわけではない。彼等は、自己の中にある、やむをえざる真理への愛によって、それぞれ、それまで彼等がやってきた学問とちがった学問に入っていったのである。
このへんに、国文学者としての益田氏の強い繩ばり意識があると
思う。
これは前置きで「しかし」以後で、益田氏は本論に入ってゆく。新国文学者を擁護する人の中で、国文学者に叩頭せよと命ずる人があるという。妙なことをいう人がいるものだ。それはいったい誰か。

 〔去年、大佛次郎賞が梅原猛氏の『水底の歌ー柿本人麿論ー』に贈られた時にも、選考委員であられた某老大作家が「このような卓抜な新説を、なぜ国文学者はちゃんと取り上げて評価しないのか」という趣旨のことを言われていた。新聞記者が伝えた談話記事だから、話し手の言い方をうまく書きえていたかどうかは、わたしにはわからない。わからないが、こういう考え方は、大作家にしても、新聞記者にしても困る、と思った。国文学者がキワメをつけたり、通説に繰り入れたりして決着するような、「新国文学」でよいのか。〕

おどろいたことには、この新国文学者の代表が私で、そういう乱暴なことをいったのは、大佛賞の選者である某老大作家であるということになるが、そういう話を、私は聞いたことがない。昨年の大佛賞の選者は、井上靖、石川淳、白石凡、中野好夫、都留重人、湯川秀樹、吉川幸次郎の諸氏であったが、そのうち益田氏のいう某老大作家にあたるものは、井上靖氏と石川淳氏のどちらかであろう。

選者たちは、この賞の発表された1974年10月2日の新聞にそれぞれ選者の言葉を寄せていられる。井上氏と石川氏の私の著書にかんする言葉は次のようである。

  「梅原猛氏の『水底の歌』は、氏独自の研究ものの中でも一番光っているものだと思います。エネルギーにみちた独創的発想でもあり、発言でもあり、充分説得力をもった問題提起でもあります。 「蘆花」とならんで、この野心作の受賞は大佛賞に新鮮な性格を与えたと思います。この出色な人麿論をめぐって、論争が生れたらすばらしいと思いますし、また生れるべきだと思います。」(井上靖氏)

  「また梅原氏の近年の仕事は古代史の世界に分け入る冒険旅行の出発である。従来の著述の中でも、『水底の歌』はもっとも論証の筋を通して表現にも渋滞がない。歴史の謎を解くために、これは必至に編み出された仮説である。他日この仮説の破れることがあったとしても、問題提起の功は消えない。梅原氏の投げた一石に依って専家の間に充実した論争がおこるに至れば、そこにこそ授賞の意味が生きる。」(石川淳氏)

両氏とも、けっして国文学者に叩頭せよなどとは、いわれていない。益田氏は、どこで某老大作家の談なるものを読んだのであろう。授賞式の席上、選者を代表して石川淳氏が挨拶されたが、それは、先の言葉よりそっけなく、私など多少不満を覚えた次第である。念のために、その授賞式の模様を報じた10月16日の新聞を調べて見たら、そういう記事はないし、またそこに居合わせた二、三の友人に聞いたが、そういうことを石川氏はおっしゃらなかったという。とすると、益田氏は、何月何日づけの何新聞でそういう記事を見たのか、お教えいただきたい。

国文学者は、出来るだけ原典にあたってその原典の意味を正確に把握することから、その研究を始めねばならないが、益田氏はここでかんたんに調べることの出来る原典に当っていないのである。この場合朝日新聞に書かれた両氏の文章こそ、もっとも信頼のおける原典であろう。さすがに二人とも作家である。短い文章の中に、二人の作家の個性がにじみ出ている。その文章をもとにして、益田氏は、某老大作家の言葉を検討すべきであった。それを怠って、「こういう考え方は、大作家にしても、新聞記者にしても困る」とぬけぬけと云う。

益田氏はここで原典に当ることを怠ったばかりか言葉の解釈をまちがえている。両氏とも、これははなはだ大胆な仮説であるので論争が起ってほしいといっておられるのである。国文学者に「ちゃんと取り上げて評価しないのか」とはいわれず、まして、「このすぐれた著作に叩頭しないのは、なぜか」となど、けっしていわれていない。つまり某老大作家が、「論争」を要求しているのに、益田氏はそれを「評価」あるいは「叩頭」を要求したと考える。言葉の意味を正確に解釈すべき国文学者として、まことにあるまじき曲解である。

これは、益田氏の深層心理の問題だと心理学者はいうかもしれない。作家は論争をせよといったのに、益田氏は叩頭せよと聞いた。論争は客観的論理の問題であるが、叩頭は主観的面子の問題である。
益田氏は客観的論理の問題を、主観的面子の問題にしてしまうのである。

〔『水底の歌』に関していえば、、それがどういうものかは、雑誌連載の段階から読んだ人にはわかっていたはずで、あの柿本人麿出雲配流説が成り立つ成り立たぬは、読者が、あの論そのもので判断してもらわないと困る。あの論は、他との関係で成り立ったり成り立たなかったりする以前に、自家撞着をはらんでおり、そのために、黙殺するか、空想読み物として大いに楽しむかしか出来ないのだ。〕

いよいよ魔女裁判が始まった。冒頭、益田裁判長は、はっきりと死刑宣告を行う、その理由は、自家撞着である。自家撞着をはらんでいるから、他との関係で成り立つか、成り立たなかったりすることを議論する必要はないと益田氏は、断言する。益田氏は「自家撞着」という万能薬の発見によって、他との関係、つまり私の説が万葉集をどう解釈し、伝承をどうとらえているか、を文献にあたって調べる必要をまぬがれる。全く便利なものを発見したものであるが、そういう、手近に発見された万能薬なるものは、古来からいかがわしいものが多いのも事実である。

この自家撞着なるものがどういうものか、後でゆっくり吟味するが、益田氏は、この文章そのものに、大きな自家撞着が含まれていることを、全く気づいていない。つまり、彼は、私の説が成り立つか成り立たぬかは、読者の自由な判断にまかせておけといいながら、その言葉の舌の根も乾かぬうちに、こんな本は、黙殺するか、空想的読み物として楽しむかなどという主観的判断を読者におしつけようとする。

益田氏は、某老大作家が、そういう判断を読者におしつけると非難しているが、上述の言葉で明らかなように、作家は自分の判断を読者におしつけてはいないのである。私はこの本をよい本と思うが、専門家が見れば異論もあろう、論争が起ってほしいといわれているのである。

石川氏の如きは、他日、私の論が破られる日のことまで心配して下さっているのである。どうして作家が、読者に判断をおしつけたりしているのであろう。益田氏は、作家が、読者に判断をおしつけたと、作家にぬれぎぬを着せつつ、自分は、全く主観的な判断を、読者に押しつけようとしているのである。これが正に自家撞着なるものである。

この自家撞着は、いましがた益田氏が、『水底の歌』に自家撞着ありと、大見えを切った時だけに滑稽であるが、それより私は、この文章にあるひどい誤謬を指摘しておきたい。それは、あの「柿本人麿出雲配流説」なる言葉である。私か、いつ柿本人麿出雲配流説をとなえたというのであろうか。私がとなえたの
は、出雲配流説ではなく、石見配流説である。きっと出雲と石見は、今は同じ島根県に属しているのでまちがえたのであろうが、それにしてもひどいまちがいである。私の読者でそういうまちがいをした人は一人もいない。

恐らく、益田氏は、私の著書を、はなはだ粗雑に読まれたためであろうが、氏は私の著書ばかりか、万葉集そのものも粗雑な読み方をしていられるのではないかと思われる。なぜなら万葉集巻二に、人麿石見に死すとはっきりあり、人麿は石見とは結びつけられても、出雲とはけっして結びつけられはしないのである。少しでも人麿の人生について真剣に考えていたら、まちがうにもまちがいようのないあやまりである。

 〔梅原氏のように、まじめになって、「この讃岐、石見旅行を、はたして国の属官としてと考えることが出来るか。属官と考えてみたまえ。なぜ、名声赫々たる当代随一の詩人が、僻地の中の僻地、石見国へ属官として赴任しなければならなかったか。通説は、こういう矛盾を深く考えず、当代随一の詩人として、石見国の下級官僚とさせ、地方官の職務報告書をもたして上京せしめ、いっこうに怪しもうとはしないのである」と、古代の歌人を戴冠詩人ふうに考えられると、あの老いたる紀貫之を南海道の果てにやったのは、ほんとうに申しわけなかった、とわたしか詫びねばならないような錯覚に陥る。〕

益田氏は、梅原説の自家撞着なるものにふれる前に、三つの点で、『水底の歌』にクレームをつけている。このクレームのつけ方は、『水底の歌』から、もっともおかしいと思われるところを引いてきて、それを嘲弄するというふうである。

正確に原典を理解することを第一の務めとなす国文学者は、よほど慎重に原点を引用すべきである。なぜなら巨大な著書の中の、一部の文章のみをとってきてつぎ合わされたら、著者が全く語りもしなかったようなことを、あたかも著者がそう語ったかの如く思わせることができるからである。

益田氏の引用した部分は、私の人麿流罪説の帰結の部分であるが、私は、従来ほとんどすべての国文学者の人麿論の前提であった賀茂真淵の、舎人→地方官説を疑った。それは、論理的根拠が薄弱であるばかりか、年齢考、官位考などに多くの自家撞着を含んでいると共に、古今集序文その他の文献的伝承とも矛盾する。

私は『水底の歌』で舎人→地方官説の成立たない所以を数々の理由をあげて明らかにした。それゆえ私の説を批判するには、私が真淵の論に投じた数々の疑問の一つ一つを検討して、私の疑問がまちがしていて真淵論はやはり正しいことを論証するか、それとも真淵論のアポリアを説明する私の論ともちがった第三の理論を見つけるかしなくてはならぬ。

益田氏は、もちろん、そういう面倒なことをしない。唯、私がことのついでにあげた真淵説への副次的な疑問の文章を引用してあたかも私かそういう理由のみによって、真淵説を否定したように読者
に思わせ、自ら嘲笑を浮べて、その嘲笑を読者に伝染させようというのだ。

この嘲笑の背後に、古今集の撰者紀貫之は古今集撰集後、土佐守になったのだから、柿本人麿も、宮廷歌人として活躍後、地方官となって赴任してもおかしくはないという主張があるが、私はことはそんなに簡単ではないと思う。

この柿本人麿の人生と紀貫之の人生のちがいは、万葉集と古今集のちがいという問題にも関係してきて、これについても、私は、一つの見解をもち、いずれくわしく論じたいと思う。ここで、さしあたって、柿本人麿を紀貫之と同一視出来ない理由をあげれば、以下の如くなる。
(1)紀貫之は、はっきり国守の証拠があるが、人麿には、そういう証拠はなく、また万葉集の彼の歌もそう断言出来るものはない。筑紫へ行く歌も、妻と別れて上京する歌も、必ずしも証拠とならない。
(2)そればかりか、人麿は正三位と古今集仮名序にあり、真名序にも少くとも五位以上であることを示す柿本大夫とあり、平安時代の身分別歌人分類には公卿の中に入れられているし、また人丸を祭る神社の縁起もひとしく人麿を高い身分のものとしている。
(3)このことは真淵の如く、持続三年から文武四年までの人麿の身分を舎人とし、以後の彼を、六位以下の地方官として、しかも、その最終官位を掾と目との間とすることと、いちじるしく矛盾する。
(4)その上、人麿には流人であったという伝説があり、そのもっとも古い文献は、少くとも鎌倉時代にまでさかのぼる。
(5)人麿は、皇族の死とか天皇の行幸とかいう国家的な事件を、宮廷を代表して歌っている。また、人麿歌集の歌が人麿の歌とすれば、彼は忍壁皇子、長皇子、弓削皇子などと親しく歌を詠み交している。しかし、紀貫之には、そういう歌はない。
(6)ここから見れば、人麿は宮廷詩人の名に価しても、紀貫之は、そういう意味の詩人ではない。政治的重要度が二人の詩人ではちがっている。
(7)はなはだ政治的な歌集であった万葉集にたいし、古今集はその序文において、非政治的文学理念を宣言する。それは、文学が政治批判を止めることによって政治からの相対的独立性をえようとする考えである。私は政治と文学の遊離論が、紀貫之が古今集序文で語る文学論の中心思想ではないかと思う。

この(7)の点は新説なので、いずれくわしく論じたいが、このようなことを少しでも考えただけで、益田氏のように、単純に、人麿と貫之とを同一視し、それにもとづいて、私の説を嘲笑的に一蹴しよ
うとするのは、学者としてはなはだ非歴史的、非科学的であるというそしりをまぬがれないであろう。

  〔 鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ

という人麿の歌や、妻の依羅娘子(よさみのおとめ)の歌、

今日今日とわが待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも

をめぐって、「人麿が国府の属官であるとしても、そんな下級であるはずもないのに、どうしてそんな辺鄙な揚所で死ななければならないかが問題である」といわれても、死ぬと辺鄙な場所に葬ることになっていたのだから、実際困るのである。〕

この文章をよんだとき、私は、何とも情ない思いがした。益田氏とあろうものがこれまでなぜ己れを貶めなくてはならないのか。

益田氏は、空とぼけていると私は思う。私が、ここで「辺鄙な場所」というのは、石見国の西の果て、高津川の河口にあったといわれる鴨島のことである。古来から鴨島が人麿の没所とされた。そこに人麿の墓があったことはまず動かない、とすれば、これは人麿国司説の一つのつまずきの石となる。人麿が国司であって任地で没したとしたら、国府の近くに墓がある可能性が多い。しかも、当時の国府は、石見国の東の果て、仁万にあったと思われる。仁万から鴨島まで約六十五キロある。なぜ、もし人麿が国府の役人であったとすれば、国府から遠いしかも島の上に人麿の墓がたてられたのか。

私がここで辺鄙というのは、そういう意味である。そのことを益田氏がまちがえるはずはない。もしまちがえたとすれば、それは私の著書を全く読まないか、それとも、益田氏の国語の理解力が高校
生以下であることを意味する。そうでないとしたら益田氏は、すっとぼけているのである。すっとぼけて、わざと私の言葉をまちがえ、私を困らせようとする。これは、歌舞伎によく出てくる善良な町人や娘をいじめ、彼等が弁解するのをわざとすっとぼけてその意味をまちがえ、弱いものを困らせようとする悪い士のせりふである。

 「火葬にした人間の骨を散骨して川に流すなどという風習があるであろうか。また、石川のほとりで火葬にしたのを『貝に交りて』と表現するには、人麿の死骸を粗末に扱ったために貝でもついたとしか考えられたいが、そんな馬鹿なことがはたして起こりえようか」には、仏教の祖国インドの火葬散骨や聖なるガンジス河へ流す風習は、そちらが仏教哲学にお詳しいはずなので、ますます困る。〕 

ここでも、益田氏は、例の嘲笑をくり返しているが、益田氏の論理は、インドにも火葬散骨の風習があったのだから、日本にもあったにちがいない。それゆえ、人麿が火葬され、その骨が散骨されても当然であるという論理であるが、私は歴史的に考えてその時、石見で人麿が火葬されたことも疑わしく、まして、その骨が散骨されたことはまずありえないと思う。

というのは、続日本紀によれば日本で、火葬が始まったのは、文武四年(700年)の道昭の死のときであり、大宝二年(702年)に死んだ持統帝をはじめとして、以後の皇族は火葬にふせられている。しかしこの風習がどれだけ地方に拡がったかは疑わしく、学者の多くは、それが拡がるにかなりの日時を要したと考える。葬送令にも、その点の規定はない。

人麿が死んだのはおそくとも和銅二年(709年)と思われるので、火葬の開始以後、まだ十年もたっていない。その時、都から遠く離れた石見の高津の地で火葬があったかどうか。

すでに火葬すら疑わしいのに、散骨の風習が、当時の石見にあったとするのはよほどの学問的考証が必要であろう。なぜなら、人間の骨には、古墳時代以来の再生の信仰がまつわっているので、たとえ火葬がはじまっても、骨は大切に保存され、蔵骨器に入れられて、墓の奥深く埋められるのが常である。後世、野辺におちていた骨を僧が拾って供養する話が伝えられるが、骨は大切に埋めるべきものというのが、日本人の通念であろう。

けれど、中には、こういう日本人の通念をきらって、純粋インド的に葬られることを望む人がないでもない。たとえば、淳和帝は死に臨んで、「今、宜しく骨を砕き粉となし山中に散すべし」という詔を出されたが、それは臣下の反対にあった。

これは、平安時代になってからの、しかも、厚い仏教信者であった淳和帝の特別の意志によることであった。まだ火葬が始まった頃の、しかも厚い仏教信者であったとは思われない人麿の骨が、どうして川に流されるであろうか。

とすれば人麿が火葬になって、その骨が川に流されたということを学問的に証明するのは、はなはだむつかしい。それはむしろ不可能なことであろう。それなのに、益田氏は、火葬散骨の風習がインドにあったから、日本にもあった、だから人麿の骨も、火葬散骨されたろうという。あきれかえった無茶な推論である。

けれど、おそらく、益田氏は、全く考えていないことであろうが、文献は奈良時代における火葬散骨の例をはっきり伝えている。それは日本霊異記の次のような話である。

「即ち其の子孫に毒薬を服せ令めて、絞り死し畢はりて後、親王薬を服して、自害す。天皇勅して、彼の屍骸を城の外に捨てて、焼き末きて河に散らし、海に擲つ。唯親王の骨は土佐の国に流す」(古典大系本、173~175頁)

長屋王が殺されたのは天平元年(729年)であるので、人麿の死の約20年後である。20年後にあったことが20年前にあったと、も考えられるがもし、人麿が火葬散骨されたとすれば、それは、長
屋王の場合と同じ状況においてであるということになる。そうすると、人麿は長屋王と同じ死に方をした人となり、私の人麿流罪刑死説を一層強めることになる。益田氏は、私の説を強めるために、人麿は火葬散骨されたといわれたのであろうか。

梅原説の骨子はこうである。
(1)平安時代の伝説、たとえば『古今集』序の人麿三位説は、事実を反映していると認める。彼は
確かに公卿になった。真を伝える後世の伝説を軽視したのがまちがいのもと。

(2)ところが、『万葉集』の人麿の辞世鴨山の歌の題詞には、「臨死時」とある。三位以上なら「薨」、四・五位なら「卒」とあるべきなのに、六位以下のことを書く「死」が使われている。公卿となったとすれば矛盾する。

(3)だが、もし彼が石見の国に官位を削られて流され、配所で没したのなら、「死」でもよい。

(4)確かにそうだと考えるのには、『続日本紀』和銅元年四月条に「従四位下柿本朝臣佐留卒」とあり、国文学者田辺爵氏に、「柿本人麻呂は佐留か」という1951年に発表された論文があることが大いに役立つ。人麿はこの佐留と同一人らしい。

(5)入麿が佐留あるいはに改名させられたのは、罪にあたり、もとの名を剥奪され、獣の名をつけて流されたのだ。流したのは持続天皇だ。

いよいよここで、自家撞着の摘発が行われるわけであるが、そのために氏は私の説を五点に整理する。そしてそういう整理をした上で、自己撞着の指摘にかかる。

   わたしが、読者自身で論の自家撞着に気づいてもらわねば困る、と思うのは、(4)→(5)のところである。改名までして流罪した人間が、なぜ、正史に「従四位下」というもとの位で書かれ、「卒」と記されるか。「臨死時」との関係はどうなのか。正史が編まれる頃名誉回復がなっていたとすれば、「佐留」と記されるわけはない。この自己矛盾のひどさに気づかなければ、読者自身の不明というもので、国文学者が、そこまで解説して、なるほどワカッタたといわせるべき性質のことがらではなかろう。

つまり、(4)→(5)のところに、自家撞着があるという。

まして、はやくに、「罪によって名を変えられたものが、変えられた名のままで小錦下を授けられたり、従四位下という位階を称することはありえないし、従って正史に卒と記されるわけはない」という林陸朗氏(国学院大教授・日本史)の指摘(『週刊読書人』19741月7日)なども出ているのに、氏の慇懃な物腰の世評ぶりを甘く見てか、自分の気分本位の読み方、あるいは猟奇趣味を押し通したくてか、読み手の中に、それを無視して、梅原説を随喜渇仰している人びとがまだいたのである。

  そして、この自家撞着はすでに林陸朗氏に指摘されていて、今更、石川、井上氏のように梅原説をもち上げるのはおかしい。

 (4)→(5)が成り立たねば、ぼは固まらず、したがって、(1)(2)の間の矛盾は解消出来ない。それよりなにより、八世紀・九世紀の二百年間に育った伝説を、通説をひっくりかえしたいために事
実視するには、この二世紀間の貴族社会内部の口頭伝承の状況の研究が必要ではないのか。ほんとうは、まず(1)の論の起点が問題なのである。梅原氏が『日本文学』に載ったとされる田辺説は、『日本文学研究』に載ったのだ。氏の受刑改名説に結びつけられなければ、田辺説は、根拠薄弱とはいえ、自家撞着をかかえ込んではいない仮説でありえたはずである。いかなる斬新な説も、自説内部の論理的斉合性を無視しては、盲千人しか味方につけえないだろう。

そして、最後に、この(4)→(5)のところの自家撞着は説全体にかかわるから、梅原説は全く成立たないというわけである。

  何度もいうことであるが一つの説を批判するには、その説を正確に理解し、その上で、それを批判する必要がある。まして、一つの説に学問的に死刑宣告をする揚合、よほど慎重にする必要があるが、益田氏のこの論告は、まことに事実の把握に誤りが多い。

まず、最初に「梅原説の骨子はこうである」として、「平安時代の伝説」というが、これは私の言葉ではない。私は伝説をもとにして論を進めているのではなく、事実をもとにして論を進めているのである。古今集の仮名序に、人麿はおおきみつのくらゐ、すなわち正三位とあり、真名序に柿本大夫とあり、明らかに人麿は五位以上であることを示している。これは、明らかに事実であって伝説ではない。入麿が死んだと思われる和銅のはじめから、まだ二百年もたたず、しかも、万葉集がつくられたと序文自らいう大同元年(805年)よりちょうど百年目にあたる延喜五年(905年)に出来た、
万葉集について語るもっとも古い文献である古今集序文が、はっきりそう語っているのである。

一世の大学者、紀貫之や紀淑望がまちがうはずもないし、また、勅選集の序文に、いいかげんなことが書けるはずはない。紀貫之は人麿は正三位であると考え、紀淑望は、それを大夫という言葉で裏づけている。

この事実は否定しがたい。契沖のように、この序文を、二人の紀氏の認識の誤と考えることも出来ず、真淵のように、この文章を後世つけ加わったものと考えることも出来ない。貫之、淑望ははっきり、そう信じ、またそう信ずべき理由があったのである。

これは事実であるが、益田氏は、それを伝説という。あたかも紀員之も紀淑望も、たった二世紀前のことを伝説によってしか知ることができなかったように、そして、私心また伝説に従って論をたてたかのように思わせる言い方である。

また、田辺爵氏の論文が、大いに役立つとあるが、私は田辺氏の論文を「大いに役立てて」私の説をこしらえたわけではない。正直にいうと、私は、「水底の歌」を書きはじめたとき、人麿がであ
ると考えていなかった。それが書いているうちに、人麿はである可能性が高いと思うようになった。それで、そういう説をある国文学者に語ったら田辺爵氏の論文を教えてくれた。容易に手に入らない雑誌の小さい論文なので田辺氏にお願いして、お送りしていただいた。そして、ほとんど顧みられていなかった田辺氏の説を紹介したわけであるが、私が田辺氏の権威を役立てて私の説をたてているわけではない。

益田氏は、よほど私をとんでもない愚か者にし、大佛賞の選考委員をはじめとする、私の説を支持した人を私に劣らぬ愚か者として、まともな国文学者や、日本史学者は一人もその説を支持していないような印象を与えたいらしいことは、氏自ら言及する「週刊読書人」にのった林陸朗氏の文章の扱い方によっても分る。

益田氏の文章を見ると、林氏は梅原説の自家撞着を指摘し、梅原説を全面的に否認したかのようである。ところが、林陸朗氏の文章の原典はちがう。その文章の表題は、「梅原氏のもつ。“呪縛力″」となっていて、その小見出しが「松本・梅原両氏の作品のもつ刺戟性」、「見事なドラマといえる雄大な構想の構築」「完膚なきまで茂吉説を打ちのめす」「広汎な議論の展開と弁舌の巧みさと」「常識化した事柄と接触しない論述が」「万葉集に対する新しい構想の大成を」ということになっている。小見出しは編集者のつけたものであろうが、林氏の説の大要をほぼ正確に伝えていると思われる。

林氏は、井上氏や、石川氏と同じように、私の説に好意的である。しかし、林氏は日本歴史家として、日本歴史家の常識と接触しない説があることを批判して、明らかに誤謬と思われる私の説を「慇懃に」指摘して下さった。有難い話であり、その中に、益田氏が引用したあの矛盾の指摘がある。

それについては、後で説明したいが、そういう誤謬にもかかわらず、林氏は私の説を高く評価していて下さることは、結びの言葉でも分る。

 「氏の論理の階段は、これだけでは一段もはずされたわけではない。卑俗な世界に対する絶望が、氏の異常なまでの仕事の原動力となっているという。氏のハッスルする姿には、一時期の折口信夫の残影をみるような気がする。万葉集に対する新しい構想の大成を祈って、擱筆したい。」

ここで氏は、はっきりと「氏の論理の段階は、これだけでは一段もはずされたわけではない」といっている。それなのに、益田氏は、この林氏の指摘した矛盾を「大いに役立つ」と考えて、それで私の説の全面的転覆を企てる。

林氏は、私の姿に、折口信夫の残影をみるような気がするといって下さる。これは、私に対する過褒であろう。おそくなったが、林氏に心から感謝の意を示したい。

林氏のいうように、私の「水底の歌」には部分的に数々の誤りがあるにちがいない。特に律令の解釈がまずい。私は、あの本を書いたときは、まだ養老律令を精読していなかった。林氏の指摘もあり、それから後に、律令の本文ばかりか、令義解、令集義を大唐六典などと比べて読んではいるが、まだ、律令をマスターするところまで行っていない。林氏の期待される万葉集論が出来上る頃には、完全に日中の律令をマスターすると共に、もっと現代の歴史家の説を考慮しつつ、論証を進めたいと思う。
さて、以上のように益田氏の、自家撞着の指摘は、その事実説明において、数々の誤解や曲解を含むものであるが、その論理においても大きな誤謬を含んでいるように思われる。

益田氏は私の説を5つの命題で理解するが、そのような命題では、私のあの書物の論理構成は理解できないと思う。私の説は、六つの命題からなっていると見るべきである。その六つの命題を、基礎的なものから挙げると、次のようになろう。

 (1)斎藤茂吉の人麿の死の場所についての説は誤りであること。
 (2)賀茂真淵の人麿考は、それ自身論理的根拠が弱い上に、その内部に自家撞着を含み、かつ伝承とも一致しない。
 (3)人麿は、流罪者であること。
 (4)人麿は、水死、刑死者であること。
 (5)人麿は、であること。
 (6)人麿は、猨丸大夫であること。

この六つの命題のうち、(1)と(2)は否定命題であり、(3)以下は肯定命題であるが、この六つの命題のうち、(1)と(2)が基礎にある理論の層、(3)と(4)が、その上に立つ理論の層、(5)と(6)が、それに附属する理論の層ということになる。先にも述べたように、私がこの論文を書きはじめた頃、(3)と(4)までしか書こうとする気はなかった。(5)と(6)は書いているうちに、必然的に生じてきた部分である。

『水底の歌』は、第一部と第二部からなり、第一部は「柿本人麿の死―斎藤茂告諭をめぐって」、第二部は「柿本人麿の生-賀茂真淵説をめぐって」となっていて、それぞれ、茂吉説批判、真淵説批判となっている。しかし、批判の立場が確立するには、新しい人麿論が必要である。私は茂吉の鴨山考の虚妄さの批判を通じて、鴨山を、あるべき場所に帰した。そして、真淵の人麿論の批判を通じて、従来の人麿論の常識であった舎人→地方官説にたいして、高い位にある宮廷詩人→流人説をたてた。

しかし、ここで、私がほぼ100パーセントの確信をもって主張したのは(1)と(2)の部分である。

茂吉の鴨山説は、誰の眼にも明らかな誤謬推論から成り立っていると思われるが、今まで矢富熊一郎氏をのぞいて、茂吉説を批判したものはなく、多くの学者は、矢富氏の批判を無視し、盲目的に茂吉説に従っていた。沢潟久孝氏などがいち早く茂吉説を認めたこともその理由の一つであろうが、斎藤茂吉、沢潟久孝氏の権威に従って、今まで、とんでもない場所を、多くの学者は人麿の死の場所として怪しまなかったのである。

私が多くの学者や学生に考えてほしいと思うのは、このことである。いって見れば、国文学界に限らない、日本の学界の封建的な性格である。権威ある人がいえば、それに従う。あえて異をとなえる
人間は、学界から追放され、よき職にもありつけぬ。これが、明治以来の日本のアカデミズムの根本的性格であった。そういう性格を打破せずしてどうして創造的な学問が可能かと私は云いたい。

自らの眼でものを見、自らの理性でよく考えよ、と私はいうが、大久保氏など、それが不安で、またまた権威の影にかくれて、明らかに誤謬と思われる通説の上で、惰眠をむさぼろうとするのである。

私は、数年前、日本の古代世界に魅せられてから、多くの本を書いたが、少しずつ私の古代学なるものの思想的意味が自分に見えはじめてきたのである。すでに十年ほど前、私たちの仲間をジャーナリズムはたわむれに「新国学派」と名づけたが、そのたわむれにつけられた名が、その後私がし始めた仕事を規定するのではないかと思われる。

新国学は、旧国学にたいするアンチーテーゼである。いって見ればそれは、真淵・宜長によってつくられた古代像を、根本的に変革するものでなければならぬ。われわれは物を裸の眼で見ているようで、実は自ら知らず知らずのうちに、常識という色眼鏡をかけて見ているのである。日本古代学にかんしていえば、われわれは知らず知らずのうちに真淵・宜長によってつくられた色眼鏡をかけて古代世界を見ていたのである。

彼等は七・八世紀の日本の古代社会を明るき直き世界と考えたが、それは封建時代の束縛が絶頂に達した江戸中期に生きた町人たちの解放への夢が生み出したユートピア像にすぎなかった。ひとびとの心は素直で明るく、自由でその歌は専ら恋と自然をたたえる。彼等が古事記や万葉集を通じて見た古代はそういう素直で明るく自由な古代であったが、はたして現実の古代世界がそういうものであったかは、はなはだ疑問でめった。七・八世紀の日本は律令国家への道をまっすぐに進もうとする時代であった。律令国家の成立時代は、けっして素直で明るく自由なロマンの時代ではない。

真淵が人麿の人生を、舎人→地方官と考えたとき、彼は恐らく己れのつくった人麿像が万葉集という古典から抽出出来る唯一の正しい人麿像であることを少しも疑わなかったであろう。

人麿は古今集序文以来公卿として扱われると共に、彼にかんして流罪や姦通の噂などがいろいろ伝えられていたが、真淵は、文献学的理性主義者として、そういう怪しげな伝説を、古今集序文と共に後世のつくりごととして一笑に附した。そして彼は専ら万葉集に従って、おそらくは後の大伴家持や紀貫之の像を手がかりにして、人麿を舎人→下級地方官と考えた。この説の舎人の方はすでに契沖自らが疑っているし、下級地方官説も、根拠が確かなわけではなかったが、この真淵説はそれ以後のすべての人麿論の否定すべからざる前提になったのである。

ロマン主義的古代学が失っているものは、政治を見る眼である。きびしい束縛の時代を自由な時代と見誤った国学者の眼には、笞をもった律令政治の官僚たちの姿は全く写らなかった。詩人の像にしてもそうである。皇子たちの死をいたみ、天皇の行幸をたたえることは、大きな政治的行為である。こういう歌を歌うことは、必ずしも安全ではない。なぜなら、政治権力者が代ったら、前政権をたたえた詩人たちは、前政権をたたえたという理由だけで失脚する危険をもつのが政治のきびしい法則であるが、誰もが人麿にこういうきびしい政治的法則をあてはめようとしなかった。あたかも詩人人麿は、永遠に政治の波のあたらぬ遠い彼岸にすむ超歴史的詩人のようであった。

人麿の姿が都から見えなくなったのは、持統政権から藤原不比等政権へと権力が代った大宝元年であり、そして、人麿が死んだのは、藤原不比等が専制的権力を確立した和銅元年頃であったが、今まで誰一人この歴史との暗合を注意しようとしなかった。

この歴史離れの人麿像を現実の歴史の中に帰さなければならない。私は真淵説にいく多の疑問を投げかけ、真淵説が成り立たないことをのべたが、それはイデオロギーヘの批判、方法論への批判でもあった。

『水底の歌』は、結局、茂吉の鴨山考批判を導入部としたこの真淵によってつくられた人麿論の批判であり、同時に国学のイデオロギー的批判である。

この(1)と(2)の部分が、私は「水底の歌」のもっとも堅牢な部分であり、私の説を批判するには、この部分を批判しなければならない。

この二つの基礎部分の上に(3)(4)の部分が出来上がっているが、すでにあの著でことわっているように、私は、人麿流罪刑死説については、そこで必要証明を行ったが、充分証明を行っていない。私はこの説が仮説として少くとも真淵説よりははるかに真理に近いことを主張したが、まだ分らないことが多い。この説を完成するには、もう一度万葉集に現われた人麿及び人麿歌集の歌をそういう新しい見地から検討し直すことが必要である。

たとえば人麿がどうして詩人になったのか、彼はいかなる政治的立場に立ったのか、彼はどう
して流罪になったのか、そしてしばしば伝えられる彼の姦通事件とは何かなどという問題を、残された人麿の歌を土台として論じ尽さればならぬ。

これは、人麿の死という一時点からさかのぼって人麿の人生を考える方向であるが、逆に人麿の死の時点から下って、それに続く歌人たちを論じ、最後に、人麿の歌が万葉集にとり入れられる過程を、新しい視点でもって見直し、そこから逆に人麿像をてらし出す方向がある。

この場合、家特像の把握が、仕事の成否のポイントとなろう。私は現在、後者の仕事に従事中であるが、もっとも困難と思われた家持論も、ある程度の目安がたった。この方は、人麿の揚合よ
り、はるかに資料豊富なので、『水底の歌』よりはるかに確実な、しかも斬新な家持論が出来そうである。徹底的に調査研究したい。

この二つの仕事が完成するとき、私の人麿論は完成するわけであるが、それまでは(3)と(4)は、はなはだ可能性の高い仮説としておいてよい。

さて、この(3)と(4)の部分に、書いているうちに、(5)と(6)の部分、いわゆる入麿説と猿丸大夫説が加わったわけであるが、これは人麿の官位をさまざまな点で、どうしても五位以上、おそらくは四位くらいと考えざるをえないということと、人麿の年齢をおよそ二十歳位引き上げ、持統三年に彼が宮廷詩人として登場するときは、すでに中年をすぎていて、従って、天武朝にすでに五位相当の位になっていたにちがいないと考えた結果なのである。

つまり、人麿が天武十年頃に小錦下をさずけられ、最終的に従四位下となっているのが、万葉集の歌、及び、古来からの伝承から見て、いちばん自然であると考え、朝臣の姓が、直系嫡子しかさずけられないことを考えると、人麿と同一人物となると考えた所以である。あるいは、人麿とほぼ同じ時期に小錦下をさずけられ、同じ時期に死んだという兄弟があったとしても、私の入麿論は、大して変りはしないのである。

人麿論の思想的インプリケーション(含意)は存外にとぼしい。それは天武十年に小錦下をさずけられたことと、最終官位が従四位下まで行ったことと、和銅元年に死んだことにある。和銅元年の死は、万葉集の歌の配列の順序で考証出来るし、先にのべたように官位と年齢の方も、人麿論を使わなくても、ほぼ似た結論に至らざるをえない。

私か人麿論に、多少こだわりすぎたのは、契沖、真淵の人麿六位以下説を反論せんがためであった。彼等の説は、万葉集巻二に人麿死すとある、ところが大宝令に、三位以上は薨、、四・五位は卒、六位以下は死と書くとあるので、人麿は六位以下であるという論拠と共に、五位以上ならば、その任官が正史にのるはずだ、しかるに人麿の名は正史に見えない、だから人麿は六位以下であるという論拠に立っている。

前者の論拠は、大伴家持などの罪人は、たとえ、かつて五位以上でも、除名中は死と書かれるという事実によってくずれるが、後者の論拠は、人麿が別名でもって正史に登揚していると考えることに
よってしか否定出来ないのではないかと私は考えた。しかしそうむきになって努力しなくともよかったのである。林氏は前述の文章の中で、次のように注意して下さった。

「また常識的な一、二についてあげておこう。たとえば氏の正史の評価である。人麿の名が正史に見えないから、彼は六位以下であろう、という従来の見解を批判された氏は、人麿は正史にみえていないのではなくて、彼は佐留(猿)と名を変えられて見えているのであって、死するとき従四位下であったとする。即ち氏は正史の性格を考えてみるのではなくて、やはり、正史というものは五位以上を載せ、見えないのは六位以下だ、という束縛から解放されていない。

 今日では、正史『続日本紀』の前半部分については、記事が簡単で極めて遺漏が多い、という共通の常識があり、それは編さん上の然るべき理由による、とみられる。つまり、ここでは五位以上でも卒去記事等のない方がむしろ多いくらいである。氏の論に顔を見せる中臣大島しかり、伊古博徳もまた然りである。」

とすれば、私は無駄な努力をしたことになり、私が最近の歴史学の研究をよく読んでいれば、人麿猨説はあえて主張しなかったかも知れないけれど、この無駄な努力のおかけで、人麿の官位及び年齢がよりはっきりしてきたと自ら慰めることにしよう。

さて、このような私の説の自己点検をもとにして、益田氏の自家撞着の指摘を考えることにしよう。

益田氏は五つのテーゼで、私の説をまとめてくれるが、これは、益田氏の頭脳にうつった私の説であり、私の説そのものではない。氏が私の説とされるものの中に私の説でないものが多く交っている。

「平安時代の伝説」なるものが私の説でないことは前にのべたが、「彼は確かに公卿になった」のも私の説ではない。公卿は三位以上であるが、私は人麿が生前、三位以上になったといっていない。おそらく大同元年、万葉集勅選化のときに、彼は公卿を追贈されたろうといっているだけである。それなのに益田氏は、人麿は公卿になったと私がいったという。

益田氏には、私の説のあの立体的構造は全く理解できないのであろう。理解しても、氏のことだからわざと私の説を否定しやすいように、勝手に私の説なるものをこしらえて、その責任を私に負わせ
ようとするのであろう。

何度ものべるように、私の説は、茂吉諭と真淵論の批判という点をもっとも重大な主張点としている。この茂吉論、真淵論の批判という点に、益田氏が一言もふれないのはなぜであろう。私の論を批判し、否定するためには、茂吉及び真淵の人麿論にたいする私の批判を批判し、茂吉論、真淵論を擁護するか、それとも、新しい第三の理論をつくり出すかどちらかをしなくてはならぬ。

こういうことが行なわれて、はじめて、真剣な諭争がはじまり、その論争と共に、学問の進歩が可能になるのである。石川・井上氏などが切望されるのは、そういう意味での論争であり学問の進歩である。その一ばんかんじんな点を益田氏は避けて、自己のつくった、誤謬だらけの五つの命題へ私の説をおしこめ、それを批判されようとするのである。

本来ならば、そんなものに責任はとりませんよと、一蹴すればよいのであるが、私は管理職についてから、気が長くなった。しばらく益田氏につき合うことにしよう。

益田氏の主張は、益田氏のつくった私の説なるものの(4)→(5のところに自家撞着があり、その自家撞着が全体を成立せしめないことになるというところにある。それゆえわれわれは、この益田氏が主張するようにはたして(4)→(5)のところに自家撞着があるか、もし自家撞着があったとしだら、それが梅原説なるものの全体へ影響を与えるかの二点を吟味する必要があろう。

後の点から吟味をはじめよう。まず自家撞着があるとしよう、すると、それが説全体に及び、梅原説なるものが、全体として崩壊するかどうかである。

益田氏の論理を整理すると、こういうことになる、人麿猨説((4)→(5))は、人麿流罪説の必要条件である。つまり、人麿猨授説がなければ人麿流罪説は成立たない。ところが人麿猨説に自家撞着あり、入麿猨説は成立だない、従って、人麿流罪説はなり立だない。

そう彼は判断し、その判断に従って、私の説に死刑宣告をしたはずである。そう考えなかったら、(4)(5)の点の自家撞着をもって(1)(2)(3)を崩すわけにはゆかない。

ところが、おどろいたことには、その上うに彼は、いっていないのである。その代りに「(4)→(5)が成り立たねば、(3)は固まらず、したがって、(1)と(2)の間の矛盾は解消出来ない」といっているのである。
ここで、彼は(3)は「成立たず」といわずに、「固まらず」といったことに注意していただきたい。
成立たずと固まらずとは論理的に見て全くちがうのである。成立たずとは、論理的に成立せず、従ってそういう命題はナンセンスで流罪説が成立しない、だから梅原説はナンセンスだということにな

しかし、固まらずというのはちがうのである。入麿猨説がなりたたなくても、人麿流罪説は成立する、しかし、実証的根拠が弱いということになる。

とすれ(4)→(5)が成り立たねば、ぼは固まらず、したがって、(1)(2)の間の矛盾は解消出来ない。」という益田氏の言葉は、それ自身自家撞着を含んでいて誤謬である。

 「(4)→(5)が成り立たねば、ぼは固まらず、したがって、(1)(2)の間の矛盾は解消出来ない。」つまり人麿猨説が成立しなかったら、人麿流罪説は成立しないというか、それとも「(4)→(5)が成り立たねば、(3)は固まらず、したがって、(1)(2)の間の矛盾は解消しても、その実証的根拠は弱い」つまり人麿猨説は成立しなくとも、入麿流罪説は成立するが、その実証的根拠は弱いというかどちらかである。

興味深いことには、私の説に自家撞着を指摘する益田氏の宜告文のもっとも重要な場所に、重大な自家撞着が存在していて、その文章は全くナンセンスであったのである。

どうして益田氏はこのような誤謬を犯したのであろうか。それは私の説の一部しか論駁f-この一部の論駁がどんなものであるかはすぐお目にかかるがー出来ないことを自ら知っているのに、その
一部の論駁が、全部の論駁であるように読者に思わせんがためである。このへんの益田氏の論理の能力は、見事というよりいい様がない。魯鈍よばりはとんでもない。たいていの人なら、ごまかされて、梅原説は全体として駄目なのだと思ってしまう。危うく私もごまかされるところでめった。

人麿猨説は、人麿流罪説の必要かくべからざる条件ではない。したがって(4)→(5)が成り立たなくとも、(3)は成立し、(1)(2)の矛盾は解消出来る。

これで(4)(5)の自家撞着なるものが、(3)に波及しないことが明らかになったが、それでも益田氏は「固まらず」、つまり実証的根拠が弱いといわれるにちがいない。しかし、そうでもない。先にのべた
ように、人麿猨説は、そこから帰結する人麿猿丸大夫説を除外して考えれば、意外にその意味のインプリケーション(含意)は少い。つまり、天武十年に小錦下をさずけられたことと、最終官位従四位下で和銅元年に死んだことのみである。この説がなくとも、人麿は和銅元年ごろに死んだことは明らかであるし、人麿が天武年間にすでに五位相当の位に上り、最終的には四位相当になったであろうことは、私の真淵説を批判した新しい人麿官位考年齢考の自然の帰結である。人麿猨説がなくとも、人麿流罪説は固まるのである。

すでに『水底の歌』で万葉集の歌や、人麿伝承の解釈を通じて入麿流罪説を固めたはずであり、そして今後も先にのべたような二つの方向でこの説を固めつつあるのである。そういう私の人麿論が駄目というならそういう歌や、伝承の解釈の方を批判してほしい。こういう具体的解釈の問題に立ち入ってはじめて、論争は稔り多きものとなる。それをしないのは、はじめから逃げているとしか考えられないではないか。

とすれば、(4)→(5)は(3)を成立させる必要条件でもなく、(3)を固めるのにもそれほど大した役割を演じない。たとえ人麿猨説が成立たなくとも人麿流罪説はほとんど影響はない。

今や問題は一つだけとなった。(4)(5)が果たして自家撞着を含んでいるかである。益田氏がこの自家撞着に気づいたのは、林氏の次のような指摘に教えられたからであろう。

「また名を変えられて放逐されるのは、変形された一種の除名罪である。除名とは官位勲等が奪われて庶人にされるのである。罪によって名を変えられたものが、変えられた名のままで小錦下を授けられたり、従四位下という位階を称することはありえないし、従って正史に卒と記せられるわけはない。」

入麿が猨であるとし、猨が罪によって変えられた名であるならば、なぜに、日本書紀の天武十年十二月二十九日の項に柿本朝臣猨なるものが小錦下をさずけられたという記事があり、続日本紀の和銅元年四月二十日の項に、猨と同じ人物と見られる柿本朝臣佐留卒すという記事があるかということである。

益田氏は、この林氏の指摘を、自家撞着といって、大げさに騒ぎたて、林氏のこの文章のすぐ次にいわれた「氏の論理の階段は、これだけでは一段もはずされたわけではない」という忠告を顧みず、この指摘を、私の説を黙殺するのに大いに役立つと考えて、この自家撞着なるものを私の説全体に拡張しようとした。それが、どんなに、論理の誤謬であったか、というより論理のゴマカシであったかは、以上の論証で明らかであろう。

しかし、それが自家撞着であったら、たとえ私の説の必ずしも重要でない部分にせよ人麿猨説のアキレスの腱をついたことになる。もちろん、アキレスの腱をついたのは、林氏であるが、アキレスの腱をついたと、宣伝をした功は、益田氏に帰せられなければならない。

何どもいうが、私の説が細部まで確実であると私は主張していない。歴史を見ても、時代を画する新説が、完成された形で提出されたことはない。それは、個々の部分にさまざまな誤謬欠陥をもちながら、全体として、否定しがたい真理性をもち、多くの保守派の非難にあいつつも、世に拡がり、それを採用しつつ、その説の部分的な誤謬欠陥を修正してゆく次代の学者によって、継承発展させられていくのである。私も私の説が細部に至るまで、正しいと固執するわけではない。

私は私の古代学を、現在奉職している京都市立芸術大学と、京都大学で講義をしているが、学生の中に、頭のよい学生がいて、林氏のように、私の人麿猨説の矛盾を指摘し、この矛盾を解消するために、人麿の本名を猨と考え、人麿というのは字、あるいは贈り名と考えたらどうかと提案したのである。こういう考え方をとれば、名の矛盾は解決出来るが、位階、特に「卒」の矛盾は解決出来ない。

それゆえ、ここで、この矛盾を、位階と、名の問題に分けて考えて見たい。

もし人麿猨説か流罪者であるとすれば、日本書紀天武十年の項になぜ小錦下をさずけられたと書かれ、続日本紀の和銅元年の項に従四位下にして卒すと書かれたかということである。

私は、人麿を、天武・持続帝に仕えたが、大宝元年頃に失脚し、和銅のはじめ刑死したと考える。そして、以後人麿は、罪人として顧みられなかったが、彼の歌は文人政治家長屋王の時代に復活した。

しかしまだ罪を許され前官を回復するところまで至らなかった。そして、天平勝宝五年と思われる原万葉集編集の時に、「人丸秘密抄」などが、多分の誤を含みつつもその真相の一端を伝えるように、橘諸兄と大伴家持の手によって原万葉集―現有の巻一・巻二にほぼひとしいと考えられる。―の中心歌人とされた。私ば、原万葉集は、流人柿本人麿の死を中心に編集された歌集であり、そしてその死を中心にあまれた歌集は、当然藤原権力へのプロテストの意味をもつが、それは、その頃、すでに、念頭にあったと思われる、同じく藤原権力に殺された長屋王の子、黄文王を天皇にかつごうとする計画と政治路線を同じくするものであったと思う。

しかし、この原万葉集は、藤原仲麻呂の反対にあって勅選化されず、準勅選集の如きものに止まったのではないかと思われるが、この時、人麿は許されて前官を回復されたと思われる。続日本紀が完成したのは、延暦十六年であり、天平勝宝五年から四十四年後である。その時、人麿の死が報告されるとしたら、回復された官のまま従四位下某々卒すと書かれるのではないか。

一度除名され除名のまま死んだ人間が、正史編集以前に、前官を回復された揚合、その前官通り死亡記事を書かれるか、除名のまま死亡記事を書かれるか、それには原則があるのか、あったとしてもそれは例外を許すのかどうか、今のところ例を上げて論証する用意がないが、どうであろう。
専門家の教えを仰ぎたい。

もう一つの問題は、一種の除名罪にあたる改名された名が、正史にそのまま使用されるかということであるが、日本書紀がつくられたとされる養老四年は人麿はまだ除名中である。正史において除名者の任官・記事がけずられていないことは、大伴家持などの例でも明らかであるが、その名が、改名されたまま書かれるかどうかは問題であろう。

こういう例はあまりないかもしれないが、たとえば、日本書紀では、蘇我氏の名が、馬子、蝦夷、人鹿となっているが、蝦夷には毛人、人鹿には鞍作という別名があるのに、わざと蝦夷、人鹿と書いたのは、孝謙帝のとき黄文王をクタナブレ、道祖王をマドヒと名づけたように彼等が悪い名に変えられたのだという門脇禎二氏の説がある。とすれば、日本書紀は、蝦夷人鹿という罪によって改名された名をそのまま用いているわけであるが、人麿の場合も猨という罪によって変えられた名を用いられていても不思議はないことになる。

この門脇氏の説にも異論もあり、また私の説の弁護を門脇氏にお願いするわけでもないが、論理的にそうならざるをえない。それで日本書紀の方は解決するが、続日本紀の方はどうなるのか。これは続日本紀が出来た延暦十六年はすでに人麿が許され、前官を回復されているはずである。とすると従四位下柿本朝臣人麿卒すと書かれるべきであろう。それなのに柿本朝臣佐留卒すとあるのはどういうわけか。これはたしかにむつかしい問題であるが、私はこう考える。

正史には連続性が必要であり、後の正史は、前の正史に出てくる人物を、別名で用いるのは好ましくないので、続日本紀は日本書紀の猨をうけつぎ、佐留と書いたのであろう。この場合、たしかに発音は継承されたが猨に伴う侮蔑的なイメージは消されている。

古代日本の人の名の表記法は自由でその人物にふさわしい書き方をしている。日本書紀に藤原史とあるが、続日本紀には藤原不比等とある、一人の歴史家が、ならびない権力者になったからであろう。大伴旅人は、万葉集に多く旅人とあるが、房前あての手紙には淡等とあり、続日本紀では一所多比等とある。彼の自己意識においては旅人であったが、権力者の前においては淡泊なる人であり、後世の藤原氏から見れば、多比等すなわち不比等とはちがった凡くらであったというのであろう。とすると、ここに猨から佐留へと正史の書き方が変わったことは、二つの正史の、すなわち当時の権力の彼にたいする評価のちがいを物語っているのではないか、そこに一種の名誉回復が起ったのではないか。

しかし、どうもこの説明は、少しまわりくどい、と思われる人は人麿の本名を猨と考え、人麿の方を別名と考えてもよい。古代人は本名を人に知らせることを警戒して多くの名をもっていたことは明らかである。わが詩人が、二つの名をもっていて、何かの事情で正史の方はサルの方を、万葉集の方は人麿を採用したと考えてもよい。そうしたら、人麿猨説の矛盾なるものは、より容易に解決するであろう。

私は『水底の歌』で前説を採用したが、あるいは、後説の方が、よりよいというかもしれない。しかし、私は猨から佐留への言葉の変化の背後にあるイメージの変化を考えると、尚前説も捨てがたいと思っている。

率直にいって、以上の説明でも少し物足りない。他日、またゆっくり考えればよい解決を見出すかもしれない。

私は、歴史というものは、多くの闇を含んでいるものであると思う。私にとって過去の歴史は、合理的に説明されない多くの謎に満ちた、はなはだ興味深い読物であるように思われる。一つの理論で、その闇が、全面的に説明されるとは思われない。いかにすぐれた歴史家が、いかにすぐれた方法で歴史に認識の光をあてようと、歴史にはまだ明らかにならない部分が残る。

私の理論には、まだ、不明確な部分があることは否定できない。しかし、むしろそれあるがゆえに、私は、新しい仕事に挑戦する衝動を覚えるのである。

人麿猨説―私はそれを、人麿流罪説のように強く主張使用とは思わないがーに、多少の説明困難なところがあるのはたしかである。しかし、それは論理的な自家撞着というようなものではない。益田氏は、歴史の世界と論理の世界を混同しているように思われる。リッケルトが明らかにしたように、歴史的世界の法則は、論理的世界の法則のように、ただ一つの例外をも許さないようなものではない。益田氏は、ここで、私に代って論理を重視する哲学者になっているが、その哲学者は、歴史的世界を論理的世界と同一視するという、誤った原理の上に立っているのである。

とすれば、益田氏のいう自家撞着なるものの正体は明らかになった。人麿猨説には、氏が自家撞着と呼ぶアポリアがあるが、それは、歴史的時間という座標を入れて考えるとき、必ずしも自家撞着ではなく、一応合理的に説明される。その実証的うらづけが少し足りないが、それは、今後の研究によって明らかになりうると私は思う。それが学問の進歩と称するものである。益田氏は、そういう人知によって解決出来るアポリアを、永久の自家撞着と誤認した上に、歴史的世界を、全く単純に論理的世界と同一視している。

このように考えるとき、自家撞着なるものは、私の説に存在するものであるより、益田氏の、頭の中に存在するものであるように思われる。恐らく、益田氏は前々から、何とかして私の説を否定しようとしていたのであろう。そして、林氏の論文を読んで、自家撞着ー林氏はそういっていられず、益田氏の全く主観的な解釈にすぎないがーなるものを発見し、林氏の「これだけでは論理の階段は一段もはずされたわけではない」という忠言を無視して、それを、私の説を全面的に転覆さす道具として用いようとしたのであろう。そういう、無理な企ての結果がどうであったか、もはや説明するまでもあるまい。

以上で、私の、益田裁判長の死刑宣告文にたいするアポロギアを終りたいが、私の弁明で、益田氏の死刑宣告文の誤謬は、誰の眼にも明らかであると思う。氏は、「自家撞着」という罪でもって、私の『水底の歌』を告発し、その自家撞着が、私の説全体に及ぶことをもって、私の説に死刑宣告を行った。
しかし、この自家撞着なるものも自家撞着ではなく、またそれが、私の説全体に及ばないことは明らかである。益田氏の推論は根本的にまちがっている。とすれば、氏の私の説に下した死刑宣告文も、根本的に誤りであると思う。

今や、私が益田氏を、誤謬裁判の件をもって告発しなくてはならぬ立場にある。益田氏は、この宣告文を取り消す意志をもっていられるかどうか。私は逆に、益田氏に弁明を求めたい。

まことに残念なことであるが、私は、益田氏は、予め偏見をもって、私の著書を読まれたのではないかと思う。氏は、私の説が成り立たないのは雑誌連載中から分っていたといわれるが、私は、氏は雑誌連載以前から、私の説が成り立たないのを知っていたのではないかと思う。国文学者という意識の強い益田氏には、万葉集を理解することの出来るのは国文学者のみである、しかるに梅原は国文学者ではない、それゆえ梅原に、万葉集は理解出来ず、彼の書くものは誤りであるという、三段論法にもとづく強い信念が、始めから存在していたのではないかと思う。

そういう信念にもとづいて、私の本を読み、私の本から自家撞着なる万能薬を見つけ、それでもって、この世を乱す『水底の歌』という魔女を退治しようと考えたのであろう。私は、益田氏の護教的信念をあっぱれと思うが、護教的信念なるものは、中世の場合でも、真理より虚偽の味方であることが多かったのである。

氏が、真に護教的情熱を燃やされるならば、正しく私の説を理解して、その上で真面目に反論していただきたいと私は思う。近く、また『文学』誌上を借りて、私の説を整理したいと思う。『水底の歌』と共に、その論文を読んでいただき、私の論を、特に、真淵説批判の部分ーそれが成り立たなかったら、私の説は根底的に崩壊するーを一つ一つ検討してほしいと思う。学問に王道なしといわれるが、反論といえども骨の折れる仕事である。自家撞着なるニセ万能薬の発見で、反論など出来るはずがない。益田氏が労を惜しまず、そういう仕事に従事されるときーそれは、益田氏の万葉集理解を深めることになると思うーはじめて石川氏や、井上氏のいわれる、稔り豊かな論争が可能になると私は思う。

(うめはらたけし・京都市立芸術大学学長)

梅原猛研究資料 益田勝実著「アポロギアとアポリアー梅原猛氏にー」

8月 1st, 2015 by