梅原猛研究資料 益田勝実著「アポロギアとアポリアー梅原猛氏にー」

『文学』1975年12月号掲載

益田勝実著「アポロギアとアポリアとー梅原猛氏にー」

 

梅原猛氏の「『水底の歌』のアポロギア」(『文学』10月号)という文章は、まことに強烈な熱気に貫かれており、驚倒した。わたくしが4月号の「文学のひろば」で書いたのは、『水底の歌』の読者に自主的判断を求めるということで、直接梅原猛氏という著者に宛てた批判ではない。その姿勢や心持はいまも同じだから、周囲の物好きな人びとがけしかける〈論争〉というのをはじめようとは、ゆめサラサラ考えていない。

いないより何より、最初にわたくしは降参する。梅原氏の逐条告発の中にあったように、わたくしには、梅原氏の柿本人麿石見配流説を「出雲配流説」とした不用意の誤記があった。勝負だと、これで敗けだろう。梅原氏の文章では、わたくしが裁判長で死刑宣告をしたことになっている。わたくしは、そういうムゴイことをしはしないが、そうお感じだったのなら、判決文に二字誤記あり無効として、どうか『水底の歌』に天寿を全うさせていただきたい。

以下は、揚げた足を取られてズッテンドウと尻餅ついたわたくしの、それでも地球は回っている、という未練がましい愚痴に類するものである。

わたくしの好きでたまらない柿本人麿の歌に、次の挽歌がある。

土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬(はつせ)山に火葬(やきはぶ)る時、柿本朝臣入麿の作る歌一首
428隠口(こもりく)の泊瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ

溺れ死にし出雲娘子を吉野に火葬る時、柿本朝臣人麿の作る歌二首
429山の際ゆ出雲の児らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく
430八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ

特にあとの二首は、あの「文学のひろば」を書きながらロずさんでいて、石見を出雲と書いてしまうことになった憎い歌だが、どうも憎みきれない好きな歌である。

梅原氏がこんどの文章で、「私は歴史的に考えてその時、石見で人麿が火葬されたことも疑わしく、まして、その骨が散骨されたことはまずありえないと思う」(21ページ)といい、その論拠として、
次のような議論を展開されたのに接すると、わたくしは、この三首の火葬の時の嘆きの歌が載っている自分の『万葉集』がにせものだったのか、と本気で考えたりした。

  「というのは、続日本紀によれば日本で、火葬が始まったのは、  文武四年(700年)の道昭の死のときであり、大宝二年(702年)に死んだ持続帝をはじめとして、以後の皇族は火葬にふせられている。しかしこの風習がどれだけ地方に拡がったかは疑わしく、学者の多くは、それが拡がるにかなりの日時を要したと考える。葬送令にも、その点の規定はない。
 人麿が死んだのはおそくとも和則二年(709年)と思われるので、火葬の開始以後、まだ十年もたっていない。その時、都から遠く離れた石見の高津の地で火葬があったかどうか。
 すでに火葬すら疑わしいのに、散骨の風習が、当時の石見にあったとするのはよほどの学問的考証が必要であろう。なぜなら、人間の骨には、古墳時代以来の再生の信仰がまつわっているので、たとえ火葬がはじまっても、骨は大切に保存され、蔵骨器に入れられて、墓の奥深く埋められるのが常である。後世、野辺におちていた骨を僧が拾って供養する話が伝えられるが、骨は大切に埋めるべきものというのが、日本人の通念であろう。」  (同)

梅原氏は、和銅二年(709)前後に、中央はともかく、石見の国のような地方に火葬が普及しているはずがない、という信念を持っているらしい。備中小田郡東実成材出土の「下道圀勝母骨蔵器」の銘や、因幡国府中出土「因幡国法美郡伊福部徳足比売墓誌」では、いずれも和則元年(708)に火葬したことがわかる。

そういう動かぬ証拠はあるが、もし、梅原氏が、それは山陽道は吉備どまり、山陰道は因幡どまりで、(それ以遠の地には)「この風習がどれだけ地方に拡がったかは疑わしく、学者の多くは、それが拡がるにかなりの日時を要したと考える」の意味で書いたのだというのなら、なにをかいわんやである。それにしても、引き合いに出された「学者の多く」には、勉めて地方の金石文を勉強してもらわなくては困る。

だが、ほんとうは、石見の国で火葬が何年にはじまったかなどは、そう大切なことではない。人麿の妻依羅娘子(よさみのをとめ)が、離れた土地で死んだわが夫の葬られ方をどう想像したかが、問題なのである。

柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌一首
223鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ

 柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子の作る歌二首
224今日今日(けふけふ)とわが待つ君は石川の貝(一に伝ふ谷に)に交(まじ)りてありといはずやも
225直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ

というのが、人麿の辞世と妻の嘆きの歌であるが、人麿は、さきに引いた428・429・430の作で明らかなように、すでに在世中に火葬を幾度も見聞していた。妻もほぼ同様に考えたいが、どうだろう。

火葬後の骸骨については、

1404鏡なすわが見し君を阿婆(あば)の野の花橘の珠に拾(ひり)ひつ
1405秋津野を人の懸(か)くれば朝蒔きし君が思ほえて嘆きは止まず
1415玉梓(たまづさ)の妹は珠かもあしひきの清き山辺に蒔けば散りぬる

などの作者未詳の巻七の歌がある。これらの歌の年代は狭く限定出来ないが、巻七は、『柿本朝臣入麿歌集』から採った歌が殊に多い巻で、それらと並んでいるものである。

梅原氏が『水底の歌』で、依羅娘子の歌に不審を抱き、「火葬にした人間の骨を散骨して川に流すなどという風習があるであろうか。また、石川のほとりで大葬にしたのを『貝に交りて』と表現するには、人麿の死骸を粗末に扱ったために貝でもついたとしか考えられないが、そんな馬鹿なことがはたして起こりえようか」とし、水死者であり、刑死者である人麿を考えて、はじめてこの歌が理解出来るとしたのは、わたくしの知っている人麿時代の葬送法とまるで食い違う。

依羅娘子の歌(224・225)が刑死説の手がかりになりにくいように、人麿の自ら傷みて作る歌(223)の詞書「臨死らむとする時」の「死」字の用法も、『古今集』両序の記載の信憑性を検討すれば、少しも刑死説の論拠とはなりえない。

そのまえに、梅原氏のこんどの文章では、わたくしが具体的に指摘した人麿=猨説の矛盾については、非常に弱気であることに注目しておこう。文中しきりに、
「同じ時期に死んだ猨という兄弟があったとしても、私の人麿論は、大して変りはしないのである」
「先にのべたように官位と年齢の方も、入麿猨論を使わなくても、ほぼ似た結論に至らざるをえない」(27ページ)
「私が最近の歴史学の研究をよく読んでいれば、入麿猨説はあえて主張しなかったかも知れないけれど、この無駄な努力のおかけで、人麿の官位及び年齢がよりはっきりしてきたと自ら慰めることにしよう」(28ページ)という言い方がされている。

わたくしは、人麿=猨説こそは、人麿流罪説の補強・検証装置だと重要視してぃたが、梅原氏は自ら、その重要なフィード・バック機構を見捨てょうとする。これは影響するところが大きく、梅原説にとっても損失だと思うが、もはやそれは問うまい。

梅原氏自身のまとめ方によると、『水底の歌』は六つの命題からなっている、という。
 (1)斎藤茂吉の人麿の死の揚所につぃての説は誤りであること。
 (2)賀茂真淵の入麿考は、それ自身論理的根拠が弱い上に、その内部に自家撞着を含み、かつ伝承とも一致しない。
 (3)人麿は、流罪者であること。
 (4)人麿は、水死、刑死者であること。
 (5)人麿は、猨であること。
 (6)人麿は、猨丸大夫であること。(25ページ)

そして、その六つの命題の中、「ここで、私がほぼ100パーセントの確信をもって主張したのは、(1)と(2)の部分である」(同)ともいう。

(1)とは、「私は茂吉の鴨山考の虚妄さの批判を通じて、鴨山を、あるべき場所に帰した」(同)ことであり、(2)とは、「真淵の人麿論の批判を通じて、従来の人麿論の常識であった舎人→地方官説にたいして、高い位にある宮廷詩人→流人説をたてた」(同)ことである、とも説明している。

そして、さらに、「この(1)と(2)の部分が、私は 『水底の歌』のもっとも堅牢な部分であり、私の説を批判するには、この部分を批判しなければならない。この二つの基礎部分の上に、(3)(4)の部分が出来上っているが、すでにあの著でことわっているように、私は、人麿流罪刑死説については、そこで必要証明を行ったが、充分証明を行っていない」(26~27ページ)「はなはだ可能性の高い仮説としておいてよい」(27ページ)と述べている。

これをそのまま読むと、(3)(4)は仮説だから、問題にするにしてもその扱いにしておいてほしい、ということらしい。わたくしは、(1)(2)(3)(4)(5)(6)を緊密一体のものと考えようとしていたが、梅原氏自身が、その分断を望んでいる。それならそういう希望に沿った方がよい。だが、(2)の中にすでに高い位にある宮廷詩人→流人説を含めており、それが100パーセントの堅牢さをもつと誇る以上、(3)の 「人麿は、流罪者であること」がそうではないというのはなぜか。その辺が解せない。

それはそれとして、梅原氏が100パーセントの自信を抱こうとも、極め手のあるはずのない(1)の鴨山探しごっこには、わたくしはお相手出来ない。斎藤茂吉の湯抱の鴨山説であろうが、氏が復活を謀る旧来の益田の高津の鴨島説であろうが、地理考証の妥当性は、資料の制約から自ら限界がある。茂吉説の不備を衝くことは大いに結構だが、さりとてその分だけ鴨島説が確実度を高めるわけではない。

『水底の歌』で展開された梅原新説で問題にすべき点は、氏の主観とかかわりなく、(2)(3)(4)(5)(6)の連環であろうが、すでに、(3)(4)および(5)(6)について、こんどの文章で以上のような態度が表明されて
いる以上、(2)にしぼって、それが論理的に確実かどうかを考えていくのが適切だろう。

(2)で、梅原氏は、賀茂真淵の舎人→地方官説が成り立たないとし、人麿の生涯を高い位にある宮廷詩人→流人説でとらえる。その第一の論拠は、

「古今集の仮名序に、人麿は、おおきみつのくらゐ、すなわち正三位とあり、真名序に柿本大夫とあり、明らかに人麿は五位以上であることを示している。これは、明らかに事実であって伝説ではない。人麿が死んだと思われる和銅のはじめから、まだ二百年もたたず、しかも、万葉集がつくられたと序文自らいう大同元年(805年)よりちょうど百年目にあたる延喜五年(905年)に出来た、万葉集について語るもっとも古い文献である古今集序文が、はっきりそう語っているのである。

 一世の大学者、紀貫之や紀淑望がまちがうはずもないし、また勅選集の序文に、いいかげんなことが書けるはずがない。紀貫之は人麿は正三位であると考え、紀淑望は、それを大夫という言葉で裏づけている。この事実は否定しがたい。契沖のように、この序文を、二人の紀氏の誤と考えることも出来ず、真淵のように、この文章を後世つけ加わったものと考えることも出来ない。(23ページ)」

とこんどの文章でも再確認しているところにある。梅原氏はそれを確信してかかる。だが、それは『古今集』内部の矛盾の検討を抜きにして、そう簡単にはいえない。

『古今集』本文における人麿の扱い方は、仮名序のそれと矛盾する 『古今集』本文では、歌の作者 名は、臣下の男性俗人の場合、

A 「左のおほいまうちぎみ」・「すがはらの朝臣」(道真)型〔右大臣以上は官名、三位以上は氏・姓を記す。〕
B 「在原なりひらの朝臣」・「としゆきの朝臣」型〔四位は氏・名・姓、もしくは名・姓を記す。〕

C 「在原元方」・「とものり」型〔五位以下は氏・名もしくは名を記す。〕

の三段階に書き分けられており、題詞・左注もこれにならっている。
だから、もし、撰者たちが柿本人麿を正三位と確信しているなら、A型表記をとるべきであり、四位と考えれば、B型表記になるべきである。ところが、実際は、

211夜をさむみ衣かりがねなくなべにはぎのしたば心うつろひにけり
このうたはある人のいはく、かきのもとの人まろが也と」

334梅花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば
この歌ある人のいはく、かきのもとの人まろが歌也

というように、一貫して「かきのもとの人まろ」、すなわちC型表記である。勅撰集では、本文部分で撰者たちがその歌人をどう呼んでいるかが最も注目すべきことだが、『古今集』の本文は、人麿を、仮名序でいう正三位の扱いにはしていないのである。

『古今集』真名序における人麿の扱い方は、仮名度と矛盾する

真名序は、「然猶有先師柿本大夫者、高振神妙之思、独歩古今之間(然れども、なほ先師柿本の大夫といふ者(ひと)あり、高く神妙の思ひを振ひて、古今の間に独歩せり)」

というが、この「大夫」は、『古今集』時代には五位の称であった。仮名序の正三位とは矛盾する。梅原氏が、
「真名序に柿本大夫とあり、明らかに人麿は五位以上であることを示している」
「貫之は人麿は正三位であると考え、紀淑望は、それを大夫という言葉で裏づけている」(23ページ)

としたのは無理である。しかし、それ以上に、このこんどの文章が『水底の歌』での主張と微妙にずらしてあるしくみに、注目すべきであろう。

『水底の歌』においては、梅原氏は、第三章の「官位考・正史考」で、こういう論の進め方をした。同章のなかからゴチック活字で掲げられた見出しを追っていうと、「人麿像に見る誤謬の体系化」---ここでは、真淵の「人麿考」の主張を五項目にまとめ、その中軸となっているのが、「顕昭において用意され、契沖においてはっきり主張された人麿六位以下説」であり、それが「歴史的に形成された一つの認識体系」であることをいっている。「われわれはここで、この六位以下説の正誤を吟味すればよいであろう。もしこの説がまちがっているとすれば、その延長にすぎない掾と目の間説、および朝集使説もおのずからまちがいであるということになる」真淵の主張は全部崩壊するであろう、という見通しをたてている。

「延喜式規定の例外-1除名者は「死」と誌す」-‐ここでは、万葉集の人麿辞世の歌の詞書「臨死時」の「死」の字を、彼が「罪なくして死を賜わった」のであれば、高位者でも「死」と書かれる、と想定し、「契沖は、次のように考えるべきだったのである。人麿は除名になったかどうか。もし除名になっていないとすれば、彼は六位以下であるが、除名になっているとすれば、彼は五位以上はもちろん三位でもありうる、と」と論じる。

「別名をもって正史に登場する貴族たち」―――ここでは、「人麿六位以下説のもう一つの論拠は、人麿は正史に見えないということである」「たしかに、柿本人麿という名は、正史には見えない。しかし、人は、二つの名をもっていることがある。人麿が別の名をもち、別の名で歴史に登場していたとすれば、どうか」となっていく。

「田辺爵氏の人麿=猨にありうるもう一つの推論」-ここで、「先に私は神田氏の推論を借りながら、柿本朝臣人麿と柿本臣猨は同一人物か、きわめて親しい直系親族かのいずれかであろうと考えたが」田辺爵氏「柿本人麻呂は佐留か」を援用して、はっきり同一人物説をとる。そして、それに欠けている「犯罪者は五位以上でも『死』と書かれる」「人麿は犯罪者ではないか」の推測をつけ加えるべきであるとする。

そのあと、「則天武后にはじまる刑罰としての改名」「考えうる仮説としての持統女帝による人麿改名」とつづき、人麿が持統女帝にと改名されて追放された、という想定が繰り出される。皇位継承をめぐる陰謀の一端をかついだとすれば、そういうことがありうる、となる。

「猨は中宮大夫ないし春宮大夫であった」――は従四位下であったとわかるが、従四位下に相当の官職を調べていくと、「官位令」に弾正尹・左右大弁・神祇伯・中宮大夫とある。この中宮大夫か春宮
大夫であったにちがいない。

「『古今集』真名序の『柿本大夫』の意味は何か」‐-―『日本史辞典』(角川書店刊)によると、「大夫」は、「①大化改新前後において議政に参画した高位・有名者。②「だいぶ」と読む。令制における各職の長官。③令制では一位以下五位以上の人の称。これが転じて五位の通称となる。この場合無官の者を無官大夫と称する。五位で未昇殿のものを地下の諸大夫、四位で昇殿を許されない者を四位の諸大夫という。④太の字を用いて『たゆう』という時は遊女の最上の品目をさす。芸人ははじめ有位(六位以下)者を称したらしいが、のちには一般上手の呼名につけるに至った」とあるが、といい、その②に見当をつけたのが、次の「大夫は五位以上の通称ではなく職の長官を指す」「伝承にひそむ真実--人麿と猨の官位は一致する」の二節である。人麿が四位の職の長官だったのならば、「柿本大夫」と『古今』の真名序でいうのとあうではないか。そして、の従四位下と合致するではないか、と推理を発展させた。

『水底の歌』の方では、梅原説は、こういう運びになっていることを銘記しなければならない。あくまでも、『古今』真名序の「柿本大夫」は四位の「大夫(たいぶ)」と見るべし、と強調されていた。ところが、こんどの文章では、梅原氏が人麿=説に対して弱気になったことは既に指摘のごとくであるから、巧妙に、角川辞典の③の方に引っ越して、「真名序に柿本大夫とあり、明らかに人麿は五位以上であることを示している」に変ったのである。『水底の歌』に即してならば、「(後に正三位を贈られた)人麿は、在世中は四位であったことを示している」と書かなければ嘘になる。

梅原氏の方は、角川辞典の③から③ヘー段下の方へ引っ越しだのだが、それは、真名序の「柿本大夫」を「ダイブ」と読むことをやめて、「タイフ」と読むことに転じたことになるばかりか、事実の上での大きな変更になる。このアポロギアの性格にも興味をそそられなくはないが、それよりも、そのこんどの五位以上説も成り立たないことをはっきりさせよう。

氏の依拠する『日本史辞典』の③は、養老の「公式令」の「凡そ位を授(たま)ひ官に任ぜんの日に喚(め)さん辞(ことば)は、三位以上は名を先に姓を後に、四位以下は姓を先に名を後に、以外は、三位以上は直(ただ)に姓を称せよ。(若し右大臣以上ならば官名を称せよ。)四位は名を先に姓を後に、五位は姓を先に名を後に、六位以下は姓を去て名を称せよ」につづく、「唯し太政官に於ては三位以上は大夫と称せよ。四位は姓を称せよ。五位は名を先に姓を後に、その寮以上に於ては、四位は大夫と称せよ。五位は姓を称せよ。六位以下は姓名を称せよ。司および中国以下には五位は大夫と称せよ」の規定あたりを念頭において、一位から五位まで、いろんな別々の条件の下で「大夫」と呼ばれることがあることを指摘したものであろう。大切なのは、三位以上が「大夫」と呼ばれる揚、四位が呼ばれる場、五位が呼ばれる場がみなそれぞれに違い、それは場とむすびついた称呼で、一般的な文章の上に囚定出来る性格の呼び方ではないということである。

なお、付け加えておくと、四位の職の長官の「大夫」を呼ぶ時には、それは官名であるから、必ず「左京大夫」とか「中宮大夫」というふうに呼び、氏に直結して「柿本大夫」などとはいわないのが慣例である。そういう言い方をするのは、五位の場合で、『万葉集』巻五の有名な大宰帥大伴旅人邸での梅花宴の記録で、「筑前守山上大夫」と山上憶良が呼ばれているのなどがそれである。その時、四位の人は「大弐紀卿」というふうに「卿」で呼ばれている。

それよりも何よりも問題は、当の真名序における「大夫」という語の用いられ方だろう。そこでは、「大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也、頗有逸興、而躰甚鄙、如田夫之息花前也(大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。頗る逸興ありて、甚だ鄙し。田夫の花前に息(やす)めるがごとし)」というふうに用いられている。

人麿=猨=丸太夫説に強気であった頃の梅原氏なら、このところさして気にかけなかったかもしれないが、「猿丸大夫」の「大夫」も、「先師柿本大夫」同様に三位とか四位だとは、主張しにくかろう。第一、同じ文章中に、「先師柿本大夫」といい、同一人をすぐ「古の猿丸大夫」と言い替えるのはおかしい。のみならず、大友黒主が歌風上猿丸大夫の流れを汲むものとされているからには、柿本大夫=猿丸大夫同一人物説をとれば、黒主は人麿によく似た歌風だと『古今集』の撰者たちが考えていたことになる。これはどう考えても無理だろう。その「猿丸大夫」と共通の用法からみても、真名序の「柿本大夫」
の「大夫」は、仮名序の。「おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろ」の「おほきみつのくらゐ」とは一致しない。両者はくいちがっている。

真名序を執筆した紀淑望という人は、中納言紀長谷雄の息男である。父親の長谷雄の「延喜以後詩序」という文章が『本朝文粋』に残っていて、「故伊州別駕田大夫作当代之詩匠」などと書いている。

「田大夫」は伊賀介島田忠但のことである。その忠臣の『田氏家集』を見ると、「奉餞紀大夫累出判〔刺ヵ〕肥、聊因詩酒各分一字得行」の詩とか、「哭舎弟外史大夫」の詩とかがあって、当代の儒者の「大夫」の一般的な用例が、いくらもころがっている。「紀大夫」は紀夏井、「舎弟外史大夫」は島田良臣のことで、いずれ心忠臣と同階層の人たちである。「大夫」は五位以上の称と辞典にあるから、仮名序の「おほきみつのくらゐ」と背馳しないというべきではなく、当代の儒者たちの漢文における一般的用法からみても、両者はくいちがうというべきである。

  『古今集』仮名序における人麿の扱い方は、内部矛盾を蔵している  ところで、問題の根源の仮名序だべこれがまた内部矛盾をはらんでいる。「おほきみつのくらゐ」と正三位を冠して呼ぶ以上、「かきのもとの人まろ」と、氏を先に姓を略して名をつづける呼び方は、どう考えても異例中の異例。正三位の人に対する呼び方の例にならっていない。

  『拾遺集』本文における人麿の扱い方も、公卿に列した人の扱いではない
『古今集』にすぐつづく『後撰集』は、人麿の作というものを収録していないが、その次の勅撰集『拾遺集』は、
題しらず                柿本人麿
12梅花それともみえず久方のあまぎる雪のなべてふれゝば

のように、名を「柿本人麿」もしくは「人麿」と記しており、これまた梅原氏のいう高い位にのばった詩人としての待遇はしていない。

こういう厳然たる事実の一方で、仮名序の「おほきみつのくらゐ」は、久曾神昇氏の『古今和歌集成立論 資料編』(上)が、有力な古写本・古筆切を併せ載せて推定しているように、極く早い時期の写本から本文にちゃんとある。それらには、やや用字が違うものがあっても、なかみは動かない。この事実もどうするか。契沖・真淵らがその点に悩み、疑いを抱いて説を立てたのは、以上のような事情からである。では契沖説に則るか、真淵説に加担するか、性急にそう自己を追い込むまえに、こういう『古今集』の内蔵する諸矛盾に眼をつぶるかつぶらないかが問題なのである。

『古今集』は十世紀のもので、人麿に関しては、十世紀的な扱い方の諸相を反映しているのでしかない。梅原氏に、「一世の大学者、紀貫之や紀淑望がまちがうはずもないし、また勅選集の序文が、いいかげんなことが書けるはずがない」と生真面目にいわれても、そういう思い込みをとめだては出来ないが困る。古代の勅撰集のイメージ、文章術のイメージがずいぶん違うんだなあ、と思う。

縷々述べてきたような『古今集』仮名序の「おほきみつのくらゐ」をめぐる問題にすべて眼をつぶって、それこそは信憑しうる原点だとして、それとの関係で『万葉集』の「臨死時」にも解釈を加えたのが、『水底の歌』である。そう割り切ると、それはそういう一つの憶測ないし推理小説になるから、そうしか遇するわけにいかない、というのがわたくしである。

わたくしが「文学のひろば」でなぜ『古今集』を問題にしなかったかといえば、国文学の方では、『古今集』を手がけた人間なら、だれでもこの「おほきみつのくらゐ」について縦から横から考えめぐらさなかったものはない。それを知っていて、梅原氏は目をつぶってそのアポリアを飛び越えた、その点で議論してもはじまらない、と考えていたからであるが、こんどの文章でも、契沖や真淵は信用出来ないが、貫之・淑望は絶対といわれると、貫之と淑望の間にすでに違いがあり、貫之も、本文選定者としての撰者集団の共同作業をしていた貫之と、序をつむぎ出す貫之とは、くいちがいがあることを指摘するほかない。貫之や淑望も、契沖・真淵同様に相対化して論じていくべきではなかろうか。同様に茂吉説も相対化して考えるべきで、あれが絶対で、それを打ち破れば研究が大前進するというようなものと思い込むことはない。

ゼミナールの教室でもないのに、こういう国文学のほんの基礎部門のことを並べたてて、まことに恥ずかしい。そんなことは、もうどうでもよい。わたくしが、『水底の歌』の読者に判断を仰ぎたいのは、むしろ、『万葉集』の人麿の歌そのものについてである。たとえば、

柿本朝臣人麿、石見国より妻に別れて上り来る時の歌
131石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと (一に云ふ磯なしと) 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は(一に云ふ磯は)無くとも ……

あの長歌をどう見るか。浩翰な『水底の歌』上下巻は、ふしぎなことに、遂にあの長歌の処理の仕方には一言も触れていない。「臭いものに蓋」ではなかろうが、「石見国より妻に別れて上り来る時」ということを回避して、どうなるか。わたくしが梅原氏の論を恣意の遊戯として楽しむのは、氏のそういうわがままが可能にしてくれる空想のおもしろさを思うからである。

それにこだわらなくて済むものなら、ああもおもしろく言えよう、こうも奇想天外の推理が出来よう。念のために、いまも上巻357ページ、下巻350ページをていねいにめくってみたが、それは見つからない。
流されて石見の国にきている人麿が国境を出ることは、もちろん出来ない。だから、131はそういう身の上の頃の歌ではない。とすればそれとは別の時に石見の国に住み、石見の国から京へ上ってくることがあった、となる。その地に妻を置いてとあるから、大和の柿本の氏の一族の人麿の場合、国司としての赴任という形で石見へ行ったと見るのが自然だろうが、いったい、かつての任国に流人を送り込む例があるかどうか、その方が大問題であろう。

132石見のや高角(たかつの)山の本の際(ま)よりわが振る袖を妹見つらむか
133小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば

は、人びとによく知られているように131の長歌の反歌だが、あの歌を詠んだ時の人麿のことと、全く無関係に人麿の石見の国への配流や刑死など考えても、あの歌の好きなわたくしには、納得出来ない。

めくじらたてていうべきでもないこんなことを、くどくどいう自分も嫌になったのでやめよう。ことしの十月、わたくしどもの一族が、関が原の役に敗れて石見益田の地を捨てて、ちょうど375年になるので、訪れて七ツ尾城址に登ってみた。土地の人は、もう城の名のほんとうの呼び方も忘れて、七尾城と呼んでいるが、四世紀も経っているのだから、それはそれでよい。その山の上から、町を挾んで遥かに高津の浜や人丸神社の方を望みながら、先祖たちに問いかけてみた。「いま、京都の梅原さんという論客にぶったたかれて、弱っとりますが、御先祖様がたは、人丸さんのことでお聞きおよびのことはありますまいか」……応答なし。無理もない。かれらはここに四百年間も住んではいたが、ここに住むようになったのは十三世紀のことで、人麿の石見時代とはあ余りに隔たっているではないか。鴨山は鴨島かどうか地理考証は大いに楽しみたいが、茂吉先生にしても梅原先生にしても、やはり限界づきで一説を立てて識見を示すにとどめ、100パーセントの絶対の評価を人に求めるべきではないだろう。おたがいのやっている地理考証は、本来そういうものでしかないのだ。
(ますだかつみ・法政大学教授)

梅原猛研究資料 梅原猛著「『水底の歌』のアポロギアー益田勝実氏に」

8月 4th, 2015 by