梅原猛研究資料 益田勝実著「文学のひろば」(人麿=佐留説の自家撞着)岩波書店刊雑誌『文学』1975年4月号より

梅原猛研究資料として
岩波書店刊雑誌『文学』1975年4月号より、益田勝実著「文学のひろば」を転載します。なお「人麿=佐留説の自家撞着」という表題は、やすいゆたかがつけました。

人麿=佐留説の自家撞着

「国文学者」が魯鈍の代用語に用いられることが少なくない。自分自身省みて思いあたるふしがないわけでもなく、自嘲的に、居直り的にそういう使い方をすることがある。当節のように、百冊に近い『日本古典文学大系』などというものが出来て、国文学者の文献学的基礎作業、解釈上の問題点・到達状況がほとんど公開されると、外国文学研究者・評論家・哲学者たちが、争って日本古典文学を論じるようになってきた。他の領域での理論操作になれた頭脳で見ると、以前からの国文学者の文学論や考証研究は、見られたザマではないらしい。

転業して日本古典文学を論じる「新国文学者」が輩出した新傾向は、かつて近代文学が国文学の新分野となり、二つの国文学になって以来の、大地すべり現象といえよう。しかも、歓迎すべき現象に違いない。拝外宗一辺倒からようやく足を洗い、足もとの草の根を分けてみる風潮が強まったのは、やはり、着実な日本近代の成熟の動きだろう。

しかし、「新国文学者」を擁護する人たちの中に、自分で判断すべき「新国文学者」の到達の評価を、国文学者に、それに叩頭しないのはなぜか、というふうに非難しながら要求することがあるのは、どういうものか。

去年、大佛次郎賞が梅原猛氏の『水底の歌―柿本入麿論-』に贈られた時にも、選考委員であられた某老大作家が、「このような卓抜な新説を、なぜ国文学者はちゃんと取り上げて評価しないのか」という趣旨のことを言われていた。新聞記者が伝えた談話記事だから、話し手の言い方をうまく書きえていたかどうかは、わたしにはわからない。わからないが、こういう考え方は、大作家にしても、新聞記者にして心困る、と思った。国文学者がキワメをつけたり、通説に繰り入れたりして決着するような、「新国文」でよいのか。

『水底の歌』に関していえば、それがどういうものかは、雑誌連載の段階から読んだ人にはわかっていたはずで、あの柿本人麿出雲配流説が成り立つ成り立たぬは、読者が、あの論そのもので判断してもらわないと困る。あの論は、他との関係で成り立ったり成り立たなかったりする以前に、自家撞着をはらんでおり、そのために、黙殺するか、空想読み物として大いに楽しむかしか出来ないのだ。

梅原氏のように、まじめになって、「この讃岐、石見旅行を、はたして国の属官としてと考えることが出来るか。属官と考えてみたまえ。なぜ、名声赫々たる当代随一の詩人が、僻地の中の僻地、石見国へ属官として赴任しなければならなかったか。通説は、こういう矛盾を深く考えず、当代随一の詩人として、石見国の下級官僚とさせ、地方言の職務報告書をもたして上京せしめ、いっこうに怪しもうとはしないのである」と、古代の歌人を戴冠詩人ふうに考えられると、あの老いたる紀貫之を南海道の果てにやったのは、ほんとうに申しわけなかった、とわたしが詑びねばならないような錯覚に陥る。

 鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ

という人麿の歌や、妻の依羅娘子(よさみのおとめ)の歌。

今日今日とわが待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも

をめぐって、「人麿が国府の属官であるとしても、そんな下級であるはずもないのに、どうしてそんな辺鄙な揚所で死ななければならないかが問題である」といわれても、死ぬと辺鄙な揚所に葬ることになっていたのだから、実際困るのである。

 「火葬にした人間の骨を散骨して川に流すなどという風習があるであろうか。また、石川のほとりで火葬にしたのを『貝に交りて』と表現するには、人麿の死骸を粗末に扱ったために貝でもついたとしか考えられたいが、そんな馬鹿なことがはたして起こりえようか」には、仏教の祖国インドの火葬散骨や聖なるガンジス河へ流す風習は、そちらが仏教哲学にお詳しいはずなので、ますます困る。

 梅原説の骨子はこうである。

(1)平安時代の伝説、たとえば『古今集』序の人麿三位説は、事実を反映していると認める。彼は確かに公卿になった。真を伝える後世の伝説を軽視したのがまちがいのもと。

(2)ところが、『万葉集』の人麿の辞世鴨山の歌の題詞には、「臨死時」とある。三位以上なら「薨」、四・五位なら「卒」とあるべきなのに、六位以下のことを書く「死」が使われている。公卿となったとすれば矛盾する。

(3)だが、もし、彼が石見の国に官位を削られて流され、配所で没しだのなら、「死」でもよい。

(4)確かにそうだと考えるのには、『続日本紀』和銅元年四月条に「従四位下柿本朝臣佐留卒」とあり、国文学者田辺爵氏に、「柿本人麻呂は佐留か」という1951年に発表された論文があることが大いに役立つ。人麿はこの佐留と同一人らしい。

(5)人麿が佐留あるいは猨(さる)に改名させられたのは、罪にあたり、もとの名を剥奪され、獣の名をつけて流されたのだ。流したのは持続天皇だ。

わたしが、読者自身で論の自家接着に気づいてもらわねば困る、と思うのは、(4)→(5)のところである。改名までして流罪した人間が、なぜ、正史に「従四位下」というもとの位で書かれ、「卒」と記されるか。「臨死時」との関係はどうなのか。正史が編まれる頃名誉回復がなっていたとすれば、「佐留」と記されるわけはない。この自己矛盾のひどさに気づかなければ、読者自身の不明というもので、国文学者が、そこまで解説して、なるほどワカッタなどいわせるべき性質のことがらではなかろう。

まして、はやくに、「罪によって名を変えられた略のが、変えられた名のままで小錦下を授けられたり、従四位下という位階を称することはありえないし、従って正史に卒と記されるわけはない」という林陸朗氏(国学院大教授・日本史)の指摘(『週刊読書人』1974年1月7日)なども出ているのに、氏の慇懃な物腰の批評ぶりを甘く見てか、自分の気分本位の読み方、あるいは猟奇趣味を押し通したくてか、読み手の中に、それを無視して、梅原説を随喜渇仰している人びとがまだいたのである。

(4)→(5)が成り立たねば、(3)は固まらず、したがって、(1)(2)の間の矛盾は解消出来ない。それよりなにより、八世紀・九世紀の二百年間に育った伝説を、通説をひっくりかえしたいために事実視するには、この二世紀間の貴族社会内部のロ頭伝承の状況の研究が必要ではないのか。ほんとうは、まず(1)の論の起点が問題なのである。梅原氏が『日本文学』に載ったとされる田辺説は、『日本文学研究』に載ったのだ。氏の受刑改名説に結びつけられなければ、田辺説は、根拠薄弱とはいえ、自家撞着をかかえ込んではいない仮説でありえたはずである。いかなる斬新な説も、自説内部の論理的斉合性を無視しては、盲千人しか味方につけえないだろう。        (益田勝実)

7月 18th, 2015 by