存在という問題 -ヘーゲルとハイデガー- 1、ヘーゲルにおける語りえないもの

はじめに

この考察は、ヘーゲルの存在論とハイデガーのそれとを対置させつつ、存在という問題について考えようとするものである

哲学は体系的なものでなければならないとしたヘーゲル哲学は、人間の実存を軽視したとしばしば批判されることは周知のとおりである。だが、哲学的に語りうるものをすべて語ろうとしたからこそ、ヘーゲル哲学は結局言葉から漏れ落ちていく人間と世界の原事実に触れているということもできよう。『精神現象学』(1807) において、個別的なものを直接的に捉えているとする「感覚的確信」の真理は実は普遍的なものだとされることがしばしば批判されるわけだが、だが、それ自身普遍的なものである言語にとって感覚的存在は「到達しえない」ものであるとされることは(P.d.G.S.88)、ヘーゲル哲学においても語りえないものが存することを示唆していると考えられる。この考察では、まずその点を問題としたい。

他方、ハイデガーが『存在と時間』(1927)において、人間という「現存在」を存在の意味を問うための通路とみなして「基礎的存在論」としてその分析を企て、現存在にとって「時間性」がその存在の意味をなすとしたこともよく知られている。そこでは、「世界・内・存在」としての現存在の考察をとおして、現存在の構造全体は「自らに先立ってすでに(世界)の内に、(内世界的に出会う存在者)のもとでの存在としてあること」、すなわち「関心」として規定される(S.u.Z.S.192)。そして、この関心はすでに時間性を根底としているために、「時間性が本来的な関心の意味として顕わにされる」ことになる(S.u.Z.S.326)。さらに、死へと先駆しそれに対して覚悟を決める本来的実存へと考察は進められ、「既在的-現前的な将来としての統一的現象」が本来的な時間性であるとされる(S.u.Z.S.326)。こうしてハイデガーにおいては、人間という現存在は時間性を存在論な条件としているのである。ハイデガーはこうした時間把握からヘーゲル哲学、とくに『エンチュクロペディー』(1830)の『自然哲学』における時間論を批判する。ハイデガーによれば、ヘーゲルの時間概念は時間を絶えざる今の系列とする通俗的な時間了解の「概念的定式化」にほかならない(S.u.Z.S.428)。

なるほど、『自然哲学』においては、「他在という形式における理念」とされる自然は自己外存在の領域をなし(E.N.§247.S.24)、そのためにそこでは時間は空間とともに「まったくの抽象的な自己外存在」として現われるのだから(E.N.§253.S.41)、その時間は通俗的な時間了解が捉えるそれと同様なものだといえよう。しかしヘーゲルにおいては、本来の時間性と歴史性はそうした自然的時間も含む自然の自己外存在が、人間の自己意識の内で止揚されることによって生じると捉えられていたのではなかろうか。ヘーゲルによれば、自然は自己外存在としてその本質を自らの外部にもつが、それに対して精神は、自己意識として「自分自身のもとにあるもの」である(1)。より正確にいえば、自己意識とは自らを区別しつつもその区別を止揚する運動性である。したがってヘーゲルにおいては、自然の自己外存在が止揚されたことによって生じる自己意識のそうした運動性が同時に人間的な時間性と歴史性を可能としていると考えられる。

この考察は以下のような順序で進められる。まず、論理学の始元の問題を手引きとしてヘーゲル哲学を概観した後、『現象学』における「感覚的確信」を考察することをとおして、ヘーゲルにおいても語りえないものが存することを示す(1、ヘーゲルにおける語りえないもの)。次に、ハイデガーの『存在と時間』における「基礎的存在論」を考察した後、その成果としての本来的な時間性にもとづくヘーゲル哲学、とくに『自然哲学』における時間論に対する批判をみつつ、それに対してヘーゲルの側からするありうべき反論を対置する(2、ハイデガーの存在論とヘーゲル批判)。最後に、『現象学』においては自己意識とは「それに対してが類としてあり、そして自分自身に対しても類であるところのこの別の生命」であるとされることから(P.d.G.S.138)、こうした構造を有する自己意識がその相互承認によって実現されることによって、存在論的な存在者である本来の自己意識とともに人間的な時間性と歴史性が成立することを示す(3、ヘーゲルにおける存在論的な存在者としての人間と時間性-歴史性)。こうしてこの考察は、ハイデガーの存在論に対置させることをとおしてヘーゲル的存在論の新たな可能性を探ろうとするものである

 1、ヘーゲルにおける語りえないもの

  『エンチュクロペディー』において、論理学は「即自的かつ対自的な(an und für sich)理念の学」として規定される。それには「その他在における理念の学としての自然哲学」、さらには「その他在から自らの内へと還帰する理念の学としての精神哲学」が続く(2)。論理学は「純粋な思惟諸規定の体系」であるのに対して、精神哲学と自然哲学は、論理学がそれらに「生命を与える魂」をなすために、いわば「応用論理学」であるとされる(3)。このように論理学はヘーゲルの哲学体系における核心部をなしているが、それはまた三つの部門に区分される。すなわち、それは「その直接性における思想」を扱う「有論」、「その反省媒介における思想」を扱う「本質論」、「自分自身の内へと還帰し、まったく自らのもとにある思想」を扱う「概念および理念論」に分かれる。

ここでヘーゲルにおける存在のもとに考察しようとするものは、「直接性における思想」、あるいは「即自的な(an sich)概念」とされる存在である(4)。それは概念からすると、概念が「有と本質の真理」であり、「単純な直接性としての有へと還帰した本質」であるのに対して(5)、本質と同様に「概念の生成の契機」をなしている(6)。このように存在は概念を基盤とするもののその最初の契機であるために、「直接性における思想」、「即自的な概念」にとどまるのである。そこで有論における諸規定の進展は、本質論におけるように諸規定相互の間の反省でも、また概念論におけるように発展でもなく、たとえば定有が質という直接的な規定性をもつがゆえに有限的で可変的であるように、「他者への移行」である(7)。

  では、なぜ論理学はそうした存在から始まるのであろうか。いわゆる『大論理学』(1816)においては、論理学の始元は次のようなものでなければならないとされる。一方では、論理学では「有が出発点である」が、それは「媒介をとおして、しかも同時にそれ自身の止揚である媒介をとおして生じたものとして」捉えられる。かかる媒介を行なうものが論理学に先立つ『精神現象学』(1807)である。すなわち、始元としての有は『現象学』において考察された「有限的な知識、意識の結果としての純粋知」を前提としている(8)。『現象学』では、意識とその対象との最初の関係である感覚的確信から出発して、そうした意識が止揚されるところの絶対知に至る意識の経験の運動がたどられるが、その絶対知において「学の概念」が獲得されるのである(9)。こうして論理学の始元は、『現象学』の内でその「正当化」、あるいは「証明」、「演繹」を得ることになる(10)。そして、そこでは意識と対象、あるいは主観と客観の対立は止揚されているために、「純粋知はこうした統一へと帰入したものとして、他者や媒介に対する一切の関係を止揚している」。このように区別を欠いたものはすでに知識であるとすらいえず、そこには「ただ単純な直接性があるのみであるから、この直接性はその真の表現においては「純粋な有」であるとされる(11)。

ところが他方では、論理学においては-『現象学』も含む-いかなる前提も許されるべきではないとすれば、「論理学の始元、すなわち思惟そのものの始元があるべきだ」とされ、その場合には「思惟をそのものとして考察しようという決意のみが存在する」とされる。そのために、そうした思惟そのものが「直接的なものそのもの」、「純粋な有」であることになる(12)。こうした始元の把握は、『エンチュクロペディー』における同様な把握、すなわち、哲学においてその固有な対象である「思惟が自分自身に対して存在する」ようになるのは、「思惟の自由な行為」によるという把握に通じていよう(13)。

だが、たとえ論理学の始元がヘーゲル哲学の固有性をなす体系の円環性の内に回収されるとしても、そのようにそれが思惟そのものを思惟しようとする決意の内に求められることはやはり恣意的なものだともされよう。ところで、『現象学』では、その最終章の「絶対知」において「学の抽象的な契機のそれぞれには現象する精神一般の一つの形態が対応する」とされるように(P.d.G.S.562)、意識の経験の運動は論理学における思惟諸規定の展開に対応づけて叙述されている。したがって、それが論理学のために正当化や証明などの役割を果たしているとは必ずしもいえないと考えられる。しかも、ヘーゲルにおいて哲学は円環的な体系をなすのだから、そもそも論理学によって規定されていた『現象学』は、論理学を正当化する役割を失うことになるはずである。実際、『現象学』は論理学への導入部にして体系第一部という性格をもっていたわけであるが、それはすでに『大論理学』の初版(1812.13)が出た頃にはそうした性格を失いつつあり、結局『エンチュクロペディー』ではその体系の外部に置かれることになる。だが、それによって論理学の始元の問題が解決されたとはいえないであろう。すでにみたように、『エンチュクロペディー』では、「思惟が自分自身に対して存在する」ようになるのは、「思惟の自由な行為による」とされていたが、やはりそうした端初が恣意的である可能性は残るであろう。なるほど、それは哲学の内では「成果、しかも最後の成果」として現われ、そこで「哲学は自らの内へと還帰する円環として示される」とすることによって(14)、その始元は恣意的ではないかという疑いは払われるようにも思われる。しかし、哲学はそのように円環をなす体系性を示したとしても、その始元がそれなりに確固としたものでない限り、それはやはり空中楼閣にすぎないということもありえよう。そこであらためて論理学の境位を導くとされた『現象学』に戻り、それと論理学との関係を考えてみたい

周知のごとく『現象学』は「第一部 意識の経験の学」という表題で書かれはじめ、その後精神や宗教を扱う章が加わり最終的に「精神現象学」へと変更されたわけであるが、論理学への導入部にして体系第一部であるというその性格は変らない。だが、その変更のために意識の経験の学は同時に精神の現象学でもなければならないことになる。ここではまずそうした二重構造をもつ『現象学』がいかなるものかを、その「序論」をとおしてみておきたい。意識は知とそれに対して否定的な対象という二つの契機をもつが、精神がそうした意識の場で展開されるときには、先に触れたように精神の「諸契機はすべて意識の諸形態として現われる」。この展開をたどるものが「意識が行なう経験の学」である。そこでは、精神としての「実体は、それとその運動がいかにして意識の対象となるかという形で考察される」。だが、こうした意識のあり方は実体に対抗するもののように思われるが、実は「実体自身の働きである。かくして実体は自らが本質的に主体であることを示すのである」(P.d.G.S.32)。したがって、ここでも肝要なのは「真理を実体としてだけではなく、同様に主体としても把握し表現すること」である(P.d.G.S.19)。このように『現象学』は、絶対知をめざす意識の経験の運動をとおして実体としての精神が主体として示される過程の叙述として、意識の経験の学でありつつ精神の現象学でもあるわけである

ただ「精神」の章以降では、その章の冒頭において、これから考察される古代ギリシアの人倫などの諸形態が「先行するものと区別されるのは」、それらが「意識だけの形態であるかわりに世界の諸形態である」とされるように(P.d.G.S.315)、精神の現象学という性格が前面に出ることは否めないであろう。だが、その場合でも目標は絶対知であることに変わりはないのであるから、その不整合さをそれほど問題とする必要はないであろう。また、世界の諸形態としての精神にせよ絶対知にせよ主観と客観の統一としての理性が実現されたものであるから、『現象学』の目標は-ヘーゲルは「意識の経験の学」を書いていた際には理性から絶対知へと進むつもりだったと想定されるが-「精神」に先立つ「理性」の章において基本的には達せられていたとも考えられる。

さて、論理学は有論、本質論、概念論に三区分されるが、『現象学』ではそれにアルファベットによる区分に従えば「A.意識」、「B.自己意識」、「C.」の理性の区分が対応すると考えられる。「C.」には表題が欠けているが、すでに触れたようにヘーゲルにおいて理性とは主観と客観、あるいは意識と自己意識との統一であるから、それは理性でなければならないはずである。そこにはローマ数字の区分によれば狭義の理性すなわち「理性の確信と真理」の他に、「精神」、「宗教」、「絶対知」が属するが、それらは理性が実現されていく様々な形態であるといえよう。

その「精神」の章の冒頭では、意識、自己意識、理性というそれまで考察された諸形態は、「精神が自らを分析し、その諸契機を区別し、それら個々の契機に足を止める」ことによって生じたものだとされた後、それらについてさらに次のように述べられている。精神はまず「自らにとり対象的な、存在する現実性であるという契機に固執し、この現実がそれ自身の対自存在であることを捨象する」限り、感覚的確信、知覚、悟性を含む「意識一般」であり、次に「その対象が自らの対自存在であること」に固執すれば「自己意識」であるが、さらに「意識と自己意識の統一としての即自かつ対自存在の直接的意識」としては「理性」である(P.d.G.S.314f)。もちろん、この理性は直接的なものとしてさらに絶対知に向けて展開されなければならない。だが、こうして意識は「その直接性における思想」を扱う「有論」に、自己意識は―後にみるように、そこではとくに相互承認をめざす自己と他者の関係が問われるように―「その反省媒介における思想」を扱う「本質論」に、理性は「自分自身の内へと還帰し、まったく自らのもとにある思想」を扱う「概念および理念論」に対応づけられよう(15)。

むしろ、『現象学』と論理学はそれぞれに固有の領域の内で主観と客観の統一をめざしているわけだから、それらに属する基本的な諸規定は-純粋さに相違はあれ-等しく根源的なものというべきではなかろうか。そこでここでは、『現象学』と論理学との間に厳密な対応関係を求めることなく考察を進めることにしたい。『現象学』はむしろそれが書かれた時期に構想されていた-1805-6年の『自然哲学・精神哲学』草案における「思弁哲学」のスケッチにうかがわれるような-論理学に対応すると思われるが、ここでは今みたように『現象学』と論理学との間には基本的な、等根源的といってよい関係が存することを認めた上で、両者の出発点である存在を問題とすることにしたい。では、『現象学』において存在はいかに捉えられているであろうか

『現象学』の叙述は意識から自己意識、そして理性へと進展するが、意識は「感覚的確信、このものと思いこみ」に始まる。「はじめにある通りの知、あるいは直接的な精神は、精神を欠いたもの、感覚的意識である」(P.d.G.S.26)。あるいは、最初の知は「それ自身直接的な知、直接的なものの、あるいは存在するもの以外のものではありえない」(P.d.G.S.79)。『現象学』においては知とその対象は異なっているために、論理学における有のように本来の始元ではないという相違はあるとはいえ、感覚的確信の対象は基本的にその有に対応づけられよう。

この感覚的確信もまた知として、それにとって真理である個別的なものを直接的に捉えていると確信しており、その意味で真理と確信は一致しているとみなしている。だが、それは意識の経験の過程において「思いこみ」にすぎないことが示される。それが実際何であるかが問われると、個別的なものは普遍的なものへと姿を変え、感覚的確信の真理はむしろこの普遍的なものであることになる。たとえば、個別的なものが今、ここにあるものとされてその直接性を維持することが試みられるが、どの時間も今、どの場所もここと呼ばれるのだから、それは実は普遍的なものであることが示されるのである。

こうして感覚的確信の真理は普遍的なものであることになるが、ヘーゲルはその際とくに言語の役割に注目している。感覚的確信はその対象は「現実的な、絶対的に個別的な、まったく個人的な個的な物」として捉えられるとするが、そのように私念しているものを言い表そうとしても、それは不可能である。それ自身普遍的なものである言語にとっては、感覚的存在は「到達しえない」ものである(P.d.G.S.88)。感覚的確信とは何かという問いが立てられると、それは直接性の内に止まろうとしても言語から独立であることはできず、言語的な媒介の過程に引き込まれてしまうわけである。ヘーゲルによれば、言語は私念を転倒し別のものにするどころか、言葉にしえないものとしてしまう「神秘的な本性」を有しているのである。こうして感覚的確信の真理は個別的なものの存在の直接性ではなく普遍的なものであるということから、意識の経験の運動は、そのことを真にある通りに受け取り、直接的なものを確信するかわりに「真に捉える」段階、すなわち「知覚」へと移行する(P.d.G.S.89)。

こうして個別的なものは普遍的なものであることが示され、感覚的確信は知覚へと移行することになるが、だが、その確信が捉えようとした個別的なものがまったくの偽であったということになるわけではない。ヘーゲルにおいては「真理は全体である」わけだから(P.d.G.S.21) 、『現象学』の出発点である感覚的確信とその個別的なものもまたそうした全体の契機をなしている。したがって、その確信は真理と一致しないとはいえ、まったくの偽というわけではなく、それなりに全体としての真理の内に含まれている。さらに、『現象学』の最終章である「絶対知」において、絶対知に達した精神は一方では論理学の始元となるが、他方ではあらためて意識へ外化される必然性をもつとされることもまた、『現象学』の出発点である感覚的確信の重要性を示していると考えられる。ヘーゲルによれば、そうした精神は自らの内に「概念が意識に移行すること」という必然性を含んでおり、その意識とはまずは「直接的なものの確信、あるいは感覚的意識である」。そして、「このように精神が彼の自己という形式から自らを放免することは、彼の自己についての知が最高の自由であり、最高の確実さであることを意味する」(P.d.G.S.563)。こうしてヘーゲルの円環をなす哲学体系の立場からしても、『現象学』の出発点としての感覚的確信が有する重要な位置価は保証されているといえよう。

 だが、ここで注目されるのは、先にみたように、普遍的なものである言語にとって感覚的存在は「到達しえない」ものであるために、その確信が私念しているものは言い表しえないとされたことである(P.d.G.S.88)。そのことは感覚的確信もまたそこに属するヘーゲルの円環をなす哲学体系といかに関わるのであろうか。この問題との関連で想起されるのは、同様に「語りえぬもの」について問題としたウィトゲンシュタインの哲学であろう。それはとくに前期の『論理哲学論考』において明瞭であるが、そこでは、写像理論にもとづいて現実の像となる命題のみが意味をもつ、つまり事実に関わる言説(自然科学の命題)のみが意味をもつという言語観から、「語りえぬものについては、人は沈黙しなければならない」とされる(16)。こうしてウィトゲンシュタインにおいては、人間にとって言語の限界が世界の限界でもあることになる。

なるほど、ウィトゲンシュタインとは異なり、ヘーゲルは哲学的に語りうるものを語りつくそうとした哲学者ではないかとされよう。だが、絶対知に達した精神が感覚的確信へと還帰するとしても、そこで語りえないとされた個別的なものもまた知の内に取り込まれてしまうわけではないと考えられる「絶対知」の章では、感覚的確信として自らを放免することは、精神の「自己についての知が最高の自由であり、最高の確実さを意味する」とされたが(P.d.G.S.563)、そのことはその諸形態をとおして自らを展開して自分自身に達した精神は、ただあるとしかいえない自らの存在の根本的な事実性、偶然性に直面しながら、それを然りと肯定することを意味しているのではなかろうか。哲学的に語りうるものをすべて語ろうとした哲学は、最後に、あるというほかには語りえない人間と世界の原事実に立ち戻っているのではないか

『現象学』の到達点がそのように感覚的確信へと還帰することは、むしろそこで語りえないとされた個別的なものの存在の意義を際立たせることになると考えられる。個別的なものについてこのものといい、それはあると語るとき、それは普遍的なものへと転化される。それはなぜあるかと問うことはできるが、答えることはできず、ただあるというというほかはなく、だがそのように語るとき、それがめざした当のものは言語から身を引き姿を隠す。感覚的確信という経験は、言語に現われるものの、そのことで逆に姿を隠す個別的なものの問題をとおして、人間と世界の根本的な事実性と偶然性を示しているのだといえよう。存在は語りうるが、しかし語りえない、そこにヘーゲルにおける語りえないものが存している。ウィトゲンシュタインは言語の考察において語りえないものを問題としたが、ヘーゲルもまた感覚的確信をとおして言語の限界に触れており、しかも、彼はウィトゲンシュタインと異なり体系的な哲学者であったからこそ、そこには知の契機にはなりえても、やはりそこには解消されえない存在の原事実が示されていると考えられる(17)。

さて、個別的なものは語りえないとすることは主語となって述語とはならないとされるアリストテレスの個物の把握に遡るが、キルケゴールがそれを人間に適用して、人間の存在を個別性と主体性を特徴とする「実存」として捉えたことは周知のとおりである。今みたようなヘーゲルによる個別的なものの存在についての把握は、キルケゴールはヘーゲルの哲学体系は人間の実存を無視したと批判するものの、そのヘーゲル哲学の内にも実存哲学の要素が存することを意味していよう。実存の哲学者たちの内、現代哲学にもっとも影響を及ぼしている哲学者はハイデガーである。ハイデガーは存在の意味は時間性であるとするわけであるが、彼においてはそのように「存在の本質は時間である」のに対して、ヘーゲルにおいては「存在が時間の本質である」として、ヘーゲル哲学を批判的に捉えている(18)。そこで次に、そうしたハイデガーの哲学とヘーゲル批判を考察し、そこからあらためてヘーゲルにおける存在の問題へと向かうことにしたい

 

Posted Under: 哲学・思想

Post By 土屋 敬二 (69 Posts)

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