存在という問題-ヘーゲルとハイデガー- 2、ハイデガーの存在論とヘーゲル批判

   2、ハイデガーの存在論とヘーゲル批判

伝統的な哲学は存在と存在者とを混同していたとするハイデガーは、あらためて存在の意味を問い直そうと企てる。その主著『存在と時間』(1927)はその最初の大きな試みである。それは未完の作品であるが、刊行された部分では、漠然とはいえ存在を了解している人間を存在の意味を問うための通路として捉えて、人間という「現存在(Dasein」の構造が考察される。ハイデガーによれば、「そこから他のあらゆる存在論がはじめて発源しうる基礎的存在論は、現存在の実存論的分析論の内に求められなければならないのである」(S.u.Z.S.13)。人間がそのようにまずは「現存在」として規定されるのは、人間はまさに現に、そこにあるものであって、その内に存在が現われるような「それ自身明るみである」という様態で存在するからである。すなわち、「現存在は自らの開示態を存在しているのである」(S.u.Z.S.133)。このように開示態であるからこそ、現存在は他の存在者とは異なって存在を了解しうるのである。

こうした「現存在の「本質」は実存(Existenz)の内にある」とされる(S.u.Z.S.43)。実存とは、まさに現存在にとって「その存在においてこの存在自身が問題である」ということを意味している。そのために、それは自らの存在に対する「存在関係」であり、それゆえまた「その存在の内で自らを了解している」ものとして規定される。したがって、「存在了解はそれ自身現存在の存在規定なのである」(S.u.Z.S.12)。また、実存は「そのつど私のもの」であるから「各自性」としても規定される(S.u.Z.S.42)。現存在はこのように各自の生を生きているからこそ、そうした自らを自覚して本来的に実存することもできるが、だがふつうはそこから逃れて日常生活の内に埋没して非本来的な実存を生きているのである。

さて、ハイデガーにおいてはそのように現存在は実存として自らの存在に対する「存在関係」、自己了解として規定されるが、ヘーゲル哲学からすれば、それは自己意識として捉えられるであろう。ヘーゲルにおいて、自己意識とは自らを区別しつつもその区別を止揚する運動性であり、たとえば『現象学』では「我々は自己意識に至るとともに真理の故郷に入っている」とされるように(P.d.G.S.134)、そこにおいて真理が淵源する場でもある。だが、存在論とともにその基礎をなす人間把握をも刷新しようとするハイデガーは、それは不可避的に主観と客観の対立という近、現代哲学を悩ましたアポリアを招くという理由から、近代の主観哲学に由来する意識概念を退けようとしている。後にみるようにハイデガーは現存在をさらに「世界・内・存在」として規定するが、それはそうしたアポリアを避けるためでもあった。だが、ヘーゲルにおける自己意識の概念は近代の主観哲学の-たぶんに心理学的でもある-意識概念を止揚しているのではないかと考えられる。後でまた問題としたいが、それは関係として、あるいは自らを展開する動的な構造として捉え直すことができるのではなかろうか

すでに触れたように、ハイデガーにおいて現存在はさらに「世界・内・存在(In-der-Welt-Sein)」 として規定される。世界がそれ自体としてあり人間が後からそれに関わるというように、人間は世界の内にあるわけではなく、人間は本来的につねにすでに世界の内にあるのである。そのために世界・内・存在は現存在の「基礎的な構造」であり(S.u.Z.S.41)、全体的なものとして「ある統一的な現象」をなすとされる(S.u.Z.S.53)。ハイデガーはそうした世界・内・存在の日常的な様態を分析することをとおして「現存在の実存論的な意味は関心である」とした後(S.u.Z.S.41)、さらに考察を進め、「時間性が本来的な関心の意味として顕わにされる」とする(S.u.Z.S.326)。したがったまた、「現存在の存在はその意味を時間性の内に見出す」のである(S.u.Z.S.19)。

日常的な世界・内・存在の分析は、世界とは何か、世界の内に存在する現存在はいかなるものか、世界の内にあること、すなわち内・存在とは何かというように、その三つの契機に即して行なわれる。第一の問いは、世界が道具的連関をなしていることを考察することによって解明される。第二の問いは、現存在は日常生活において誰でもそうであるところの世間(人)の内に埋没していることを示すことによって答えられる。第三の問いは、情態性(気分)、了解、語りという内・存在の諸契機を考察することによって解明される。

ここでは、この内・存在とは何かに関するハイデガーの考察の内、とくにその基礎をなす情態性と了解に関するそれをみることにしたい。情態性に関する考察では、たとえば我々は長く続く味気なさという気分の内では自らに倦みその存在が重荷として感じられることがあるように、情態性をとおして「現存在が「とにかくあるという事実」が開示される。ハイデガーはこの事実を「被投性」と名づける(S.u.Z.S.135)。また、実存が規定される際にすでに現われていた了解に関する考察では、それがまた可能存在であり投企であることが示される。何かを了解したことはそれをなしうることを意味するように、了解とは「存在-可能としての現存在の存在様態」をなすのだから、現存在は「何よりもまず可能存在である」(S.u.Z.S.143)。そして、了解は可能性を探る働きであるから、そのことはそれが「我々が投企と呼ぶ実存論的な構造を備えている」ことを意味する(S.u.Z.S.145)。このように可能存在、投企としてあることは現存在が自由であるということであるが、だが、この自由は宙に浮いた無差別な自由というものではない。ハイデガーによれば、情態性と了解は世界・内・存在としての現存在を構成する等根源的な契機であるのだから、現存在はなるほど可能存在であるとしても、それは「現存在が自分自身に引き渡された可能存在であり、どこまでも被投的な可能性であることを意味しているのである」(S.u.Z.S..144)。そして、このように被投的な可能性として現にあることが、現存在が道具連関をなす世界と配慮的な交渉をなしたり、世間の内に埋没しているとはいえ共同存在として他者と関係することを可能とするのである

こうした世界・内・存在としての現存在の分析、とくに内・存在に関するそれは、現存在の「実存論的な意味」をなし(S.u.Z.S.41)、その「構造全体の全体性」を規定するとされる「関心(Sorge)」の考察に通じている(S.u.Z.S.191)。その関心が考察される際に、それまでの展開が次のように総括されている。「現存在の平均的な日常性は、頽落しつつ開示され、被投的に投企する世界・内・存在として規定されうる」(S.u.Z.S.181)。関心はこうした現存在の構造全体を規定するわけである。

まず、現存在は自らの存在可能に向かって存在しているが、それは現存在が「その存在においていつもすでに自分自身に先立っている」ことを意味する。したがって、現存在はまずは「自らに先立って存在すること」として捉えられる。次に、現存在は自らに引き渡され、いつもすでに世界の内へと投げ出されているために、その全体性はまた「世界の内にすでに存在することにおいて自分自身に先立つ」こととして規定される。さらに、現存在はいつもすでに配慮される世界の内に融け込み世間に頽落しているのだから、その規定にはまた「配慮された内世界的な用具的存在者のもとに頽落的に存在すること」も含まれる。こうして現存在の構造全体は、「自らに先立ってすでに(世界)の内に、(内世界的に出会う存在者)のもとでの存在としてあること」、すなわち「関心」として規定されるのである(S.u.Z.S.191f)。このように現存在の意味は関心であることになるが、その把握がすでに時間的な観点に導かれていることは明らかであろう。したがって、すでに触れたように、『存在と時間』ではさらに進んで「時間性が本来的な関心の意味として顕わにされる」のである(S.u.Z.S.326)。

ハイデガーは日常生活の内に頽落している現存在に定位していてはその真の全体性と本来性は捉えられないとして、誰も代わることのできないもっとも自己的な可能性であるところの死へと先駆し、それに対して覚悟している現存在の考察などをとおして、その存在の意味を時間性として提示しようとする。ここではその結果のみをみておきたい。まず、先駆的な覚悟性とは、現存在がその究極的な可能性としての自らの死へと先駆しそれに対して覚悟することを意味している。したがって、「その際立った可能性に耐えつつ、その内で自らを自らへと到来させることが、将来(Zukunft)という根源的な現象である」。次に、そうした覚悟性において現存在は自らの被投性を真に受け入れるようになるが、それが可能なのも、「将来的な現存在がそのもっとも自己的なそれがそのつどすでに存在していたあり方」、すなわちその既在(Gewesenでありうる」からである。すなわち、「本来的に将来しつつ、現存在は本来的に既在的に存在するのである」。さらに、先駆的な覚悟性においては現存在のそのつどの状況が開示されるが、現存在はその内で覚悟を決めて存在するようになる。「現前の意味での現在(Gegenwart)としてのみ、覚悟性はそれがあるところのもの、すなわちそれが行為しつつ捉えるものを歪めずに出会わせることでありうるのである」。つまり、覚悟性は将来的に自らへと帰来することによって、現存在を真に状況の内へともたらすのである。こうしてハイデガーにおいては、そうした「既在的‐現前的な将来としての統一的な現象」が真の「時間性(Zeitlichkeit)」なすことになる(S.u.Z.S.325f)。もちろん、かかる本来的な時間性においては、「実存性の第一義的な意味は将来である」とされるように将来が他の二つの契機に対して優位をなすが(S.u.Z.S.327)、こうして「時間性が本来的な関心の意味として顕わにされる」わけである(S.u.Z.S.326)。したがって、そうした時間性こそが関心をとおして先にみたような世界・内・存在としての現存在の日常的な存在様態をも可能としているのである

さて、既刊の『存在と時間』おいては、上述のように現存在の分析が行なわれその存在の意味が時間性であることが示されるが、構想されていたその著作は、既刊のそれが「時間そのものが存在の地平として明らかにされるであろうか」という問いで終わっていることからももうかがわれるように(S.u.Z.S.437)、存在の意味をも時間して捉えようとしていた。では、構想されていたその著作においてはいかなる存在がそうしたものとして想定されていたのであろうか。その問題について木田元氏は、「〈存在=生成〉、つまり〈ある〉ということは〈なる〉ことだと見る存在概念が、ハイデガーの念頭にあったもう一つの存在概念である」とされている(19)。ソクラテス以前のいわゆる自然哲学者たちが生きた自然(ピュシス)を把握しようとしていたことへのハイデガーの関心、それに関わる彼の講義の内容などからして、木田氏が指摘されるように、ハイデガーは生成する自然という意味での時間が存在の意味であると捉えていたといえよう

だが、キリスト教の終末論的歴史観やその影響下で生まれた歴史哲学などとは異なり、古代ギリシア人においては人間をも含む自然全体は植物の生成などに準拠して円環的に回帰する運動とみなされていたのではなかったか。だとすれば、そこではすでに存在していたものがあらためて生じるという運動がなされるわけだから、時間の考察においては過去的なものに対しても大きな意義を与えられる必要があるのではなかろうか

 実際、『存在と時間』においても、時間性にもとづいて歴史性が考察される際には、本来的な歴史性の生起は「その重点を既在性の内にもつ」とされている(S.u.Z.S.387)。なるほど、現存在は「その存在の根底において時間的であるがゆえにのみ、歴史的に実存しまた実存することができる」とされるその歴史性においても(S.u.Z.S.376)、「死へと臨む本来的な存在」こそが「現存在の歴史性の隠れた根拠である」とされるように(S.u.Z.S.386)、時間性における将来の優位は維持されている。だがハイデガーによれば、現存在がその追い越しえない自らの死へと先駆的に投企することは、その覚悟性の全体性と本来性を保証するとはいえ、「事実的に開示される実存の可能性は死からは取り出されえない」ために、現存在の覚悟性はそうした可能性を「それが被投的なものとして受け取る遺産の中から開示するのである」。そして、そこには「伝えられてきた可能性を自ら伝承するということが含まれている」とされる。このように「相続されたが、にもかかわらず選ばれた可能性の内で自らを自分自身へと伝承すること」が、現存在が引き受けるべき「自らの運命」なのである(S.u.Z.S.383f)。こうして現存在の歴史性の考察においては、過去的なものに対しても大きな意義が与えられているといえよう。さらに注目されるのは、その伝承は「伝えられてきた可能性の反復(Wiederholung)」であるとされることである(S.u.Z.S.385)。だとすれば、歴史性における現存在の生起は円環的に回帰する運動という形式を有することになるのではなかろうか。だが、そうした反復、それゆえまたそこにおける過去的なものの意義の問題については、ヘーゲルの存在論に対する考察に戻り、ヘーゲル哲学を律する円環的な運動性はいかにして成立するかを問う際にあらためて向かうことにしたい。

 ところで、存在がそのように生成として捉えられたこととも関連していようが、『存在と時間』の刊行後、ハイデガーは現存在が存在を了解するというよりもむしろ存在が生起することを強調する存在論を唱えはじめることは周知のとおりである。彼のいわゆる「転回」とされるものである。ハイデガーは近代の主観哲学の意識概念に対して批判的だったわけであるが、『存在と時間』における存在了解の把握がなおそうした伝統的な哲学の枠組の内にあったことも、そうした転回の理由の一つであると想定されている。なるほど、そこでも存在者と存在の差異は強調されるものの、「現存在が、すなわち存在了解の存在的可能性が存在している限りにおいてのみ、存在が「与えられている」」などとされるように(S.u.Z.S.212)、存在は人間の主観をとおして与えられるかのような表現が見出されるのである。現存在の存在了解に重点を置く『存在と時間』もなお主観哲学の残滓を残しており、そのために存在が現存在を規定するという転回はハイデガーにとって不可避のものだったともいえよう。

だが、存在の意味を問う「現存在は存在論的に存在する」とされ、また現存在としての人間の実存が、「その存在においてこの存在自身が問題である」ことなどと規定されたことの意義は大きいと考えられる(S.u.Z.S.12)。むしろ、転回以後のハイデガーの存在把握が神秘主義的な傾向を示す傾向に抗して、あくまでも存在了解をもつ現存在に定位して存在論を構想することも可能ではなかろうか。その場合には、すでに示唆したように、関係、あるいは自らを展開する動的な構造として捉えられうるヘーゲルにおける自己意識とハイデガーにおける現存在の存在了解とを対応づけることをとおして、存在の問題を新たに捉え直すこともできると考えられる。というのも、ヘーゲルによれば自己意識とは「自然的なものの真実態の知」であり(20)、そのためにそうした自己意識は、ハイデガーにおける現存在と同様に存在論的な存在者でありうると考えられるからである。自己意識はそのように「自然的なものの真実態の知」としていわば自然の自己意識であるからこそ、『現象学』における感覚的確信を考察した際に指摘したように、あるというほかはないという人間と世界の原事実に触れることもできるのではなかろうか。このようにヘーゲルにおける自己意識とハイデガーにおける現存在の存在了解とを対応づけて考察することをとおして、存在者と存在の区別、すなわち存在論的差異をも生かしつつも、転回以後のハイデガーのそれとは異なる存在論を構想することができると考えられる。だが、この問題についても、ヘーゲルの存在の対する考察に戻った際にあらためて考えることにしたい。

『存在と時間』においては、現存在の分析によって得られた時間性の把握にもとづいてヘーゲル哲学、とくにその時間概念が批判されている。それによれば、「ヘーゲルの時間概念は、通俗的な時間了解のもっとも根底的な、また注目されることのあまりにも少なかった概念的形式化」である(S.u.Z.S.428)。ハイデガーにおいては、先にみたように「既在的‐現前的な将来としての統一的な現象」が本来的な時間性をなすわけであるが(S.u.Z.S.326)、非本来的な時間性とは、そうした時間性の統一が弛緩し、現在という契機が時間という現象における中心的なものとして捉えられることで成立するものである。日常生活において眼前の事柄にかまけている現存在にとっては、当然のことながら現在が時間の中心をなすものとして現われざるをえない。したがってまた、日常的な現存在は経験される時間を「一種の客体的な存在者として了解する」ようになる。そのために、「通俗的な時間概念は、その由来を根源的な時間の平板化に負っているのである」(S.u.Z.S.405)。こうして成立する通俗的な時間了解においては、時間とは「絶えず「存在する」が、同時に過ぎ去りまた到来する今の系列」であり、それゆえそれは「多くの今の継起として、今の「流れ」として、「時間の経過」として了解される」ことになる(S.u.Z.S.422)。そしてヘーゲルの時間概念は、こうした通俗的な時間了解の「もっとも根底的な」「概念的定式化」であるとされるのである。

ハイデガーはヘーゲルの時間概念は哲学の伝統に従って主として『自然哲学』で考察されていることに注目して、そうした自然の存在論においては、時間は「今の系列において端的に現われる移行」として捉えられざるをえないとする(S.u.Z.S.431)。ヘーゲルの『自然哲学』においては、自然は「他在という形式における理念(die Idee in der Form des Andersseins)」として現われ、そこで「外面性」が自然に固有の規定をなしている(E.N.§247.S.24)。したがって、自然はまずは「相互外在、無限の個別化」という規定の内にあり(E.N.§.252.S.37)、そのために考察の出発点をなす空間と時間こそが「まったくの抽象的な相互外在」として現われることになる(E.N.§.253.S.41)。ヘーゲルによれば、空間における個別化を示すものは点であるが、この点の展開をとおして空間は時間へと移行するとされる。点という「空間の中でその諸規定を線や表面として展開する否定性」は、自らの内へと戻り「対自的に存在する」ようになるが、自然という自己外存在の領域においては、そのように「対自的に措定されると、その否定性は時間である」(E.N.§.257.S.47f)。こうしてヘーゲルにおいて時間は、ハイデガーもまたそこでは「点はその中にそれが存する相互継起を措定する」とするように(S.u.Z.S.430)、対自的となった点の継起、すなわち今の系列として現われる。そのために、「時間が今である自然においては、過去と未来という例の次元は存立する区別には至らない。それらの次元は単に主観的な表象、すなわち想起と、恐怖あるいは希望の内にのみ存在せざるをえない」とされるように(E.N.§259.S.52)、『自然哲学』の時間論においては現在としての今が優位をなすことになる。ハイデガーの批判は、このように現在が優位に立つヘーゲルの時間概念に向けられているわけである。彼によれば、ヘーゲルはその時間論において、通俗的な時間了解の方向に沿って「平板化された今を基調として時間解釈を行なっている」のである(S.u.Z.S.431)。

だが、ヘーゲルにおいては、自然は「自己疎外された精神」として(E.N.§247.S.25)「他在という形式における理念」であり、自己外存在の領域であるのだから、自然における時間が「相互外在」として、あるいは通俗的な時間了解が把握するように平板化された今の系列として現われるのは当然ではなかろうか。むしろ、ヘーゲルにおいても、本来の時間性あるいは歴史性が成立するのは精神の領域においてであると考えられる。たとえば『歴史哲学講義』においては、物質の実体は重力でありその本質を自らの外部にもつが、それに対して精神とは自己意識として「自分自身のもとにあるもの(Bei-sich-selbst-Sein)」であるとされる(21)。より正確にいえば、すでに触れたように、自己意識とは自らを区別しつつもその区別を止揚するところの運動性である。そして、精神はそうした自己意識を本質とするのだから、「世界史とは、精神が即自的であるところのものの知を自ら獲得していく過程の叙述である」とされる。むしろ、そうした精神のあり方からすれば、「精神の最初の足跡もまた、すでに全歴史を潜在的に含んでいるのである」(22)。このように精神が歴史的なものであるのは、それが時間や重力などに代表される自然の自己外存在を止揚しているからであると考えられる。人間は、自らを区別しつつその区別を止揚する運動性を有する自己意識であるからこそ、自己外存在の領域に止まる自然とは異なり歴史的に自らを展開することができるのではなかろうか

さらに、『存在と時間』ではヘーゲルにおける精神と自然との関連もまた批判されている。ヘーゲルにおいて精神は歴史の内で実現されるが、ハイデガーによれば、ヘーゲルはその可能性を示すために、「精神と時間が否定の否定という形式的な構造において同一的であること」を論拠としている。だが、その際時間の根源的な由来が蔽われているために、「時間は精神にある客体的な存在者としてわけもなく向かい合って立っている」のであり、そこでヘーゲルにとって時間の外部に存在しているはずの精神が時間の内で実現されるということの存在論的な意味は、なおさら「不明に止まるのである」とされる。そしてハイデガーは、それまでの批判を総括するように、「ヘーゲルは平板化された時間の根源を解明していない」し、また、否定の否定という精神の本質構成が、「根源的な時間性にもとづかずに一体いかにして可能かという問いをまったく吟味せず放置している」とする(S.u.Z.S.435)。

だが、ヘーゲルの『自然哲学』においても、いずれも「否定の否定という形式的な構造」をもつとされる精神と自然の関連は説明されているのではなかろうか。自然が「自己疎外された精神」、あるいは「他在という形式における理念」であることは、そうした形式においてではあれ、自然が精神によって規定されていることを意味している。ヘーゲルによれば、なるほど「精神は自然から生じた」わけであるが、自然を哲学的に探究することにとっては「自然は精神から生じた」という側面の方がより本質的である。だが、その生成は「経験的なものではなく、精神が自ら前提する自然の内につねにすでに含まれている」という意味での生成である。したがって、「自然の諸形態は、外面性のエレメントの内にあるとはいえ概念の諸形態にほかならないのである」(E.N.§376.S.538f)。ヘーゲルの『自然哲学』は自然の内なる理念の展開が精神に至る過程を叙述するものであるが、自然がすでにそのように精神によって規定されているからこそ、内なる理念が開示され精神が現われるそうした過程が可能となるのだといえよう。そして、ヘーゲルにおいて理念の核心をなすのは自らを区別しつつもその区別を止揚するという運動性を有する自己意識であるが、それがこのように否定の否定という構造をもつために、理念の他在である自然もまた、相互外在という「平板化された」形式の内ではあれ同様の構造を示すのだといえよう。そして、ヘーゲルの歴史的哲学においても、そうした自己意識の運動性こそが人間の歴史性と歴史の展開を可能としているのではなかろうか

ところで、すでに触れたように、ハイデガーの場合は「存在の本質は時間である」が逆にヘーゲルの場合は「存在が時間の本質である」とされたハイデガーの『ヘーゲルの精神現象学』においては(23)、ヘーゲル哲学においてはまた「自らの内へと還帰したものが本来的に存在するものであるとして、そこでは「過去が存在の本質をなす」とされる(24)。そのことは、ハイデガーが『自然哲学』におけるヘーゲルの時間概念は通俗的な時間了解に従って現在が優位をもつと批判したことと矛盾しているように思われるが、必ずしもそうではない。『ヘーゲルの『精神現象学』』では、とくに『現象学』の「自己意識」の章における生命の運動に関する叙述にもとづいて、ヘーゲルにおける存在と時間の関係が問題とされるが、そこではまずヘーゲルの青年期神学論集から「純粋な生命は存在である」という文章が引かれた後、ヘーゲルにおいては、「生命-それは自らを自らから生み出し、その運動の内で自らを自らの内に保持する存在を意味する」とされる(25)。そして、『現象学』では生命は「すべての区別項が止揚されていることとしての無限性」であり、「このような自己相等性の内に空間の充実した形態をもつ時間の単純な本質」などとされることから(P.d.G.S.136)、ヘーゲルにおいては、「存在の本質が時間の本質である。あるいはこの時間の側からいえば、時間は無限性としての存在の単純な本質の一つの現象である」とされる(26)。すなわちハイデガーによれば、ヘーゲルにおいては、時間的なものとして展開されるものはそれがそこにおいてすでに止揚されているところの存在の「現象」であることになる。そうした存在は、ハイデガーの時間概念においては-必ずしも非本来的とはいえないであろうが-ともかく現在と対応していよう。だがまたハイデガーによれば、すでに触れたように、ヘーゲル哲学においては「自らの内へと還帰したものが本来的に存在するもの」であるために、「過去が存在の本質をなす」のである(27)。したがって、ヘーゲルにおいては現象として「存在するものはつねにすでに生起したものである」ことになる(28)。このヘーゲルにとっては「過去が存在の本質をなす」のではないかという問題は、ハイデガーにおける時間性、とくに歴史性の場合にも過去的なものが大きな意義をもつのではないかとした先に触れた問題とも関わってこよう。

なるほど、『歴史哲学講義』において、「世界史とは、精神が即自的にあるところのもの知を自ら獲得していく過程の叙述である」とされたことに顕著であるように(29)、ヘーゲルにおける概念の展開は、すでに即自的に存在していたものが想起されるという形式を有しており、その意味でそこでは過去的なものが優位をなすといえよう。だが、それは過去に属していたものが止揚されて精神の諸契機として保存されているからであると考えられる。そのために、たとえば『現象学』の「序論」においても、カントやシェリングの哲学などを含む近代の精神史の成果を踏まえて、新たな哲学の始まりは「全体が生成し単純となった概念」であり、その哲学においては、「契機となったあの諸形態がまた新たに、だが自らの新たな場で、生成した意味において展開され、形態を与えられる」必要があるとされるのである(P.d.G.S.16)。したがって、ハイデガーがヘーゲルにおいては現在が優位をなす一方過去もまた本質的なものとしたことはある意味で当然のことだともいえよう。

しかしまた、過去的なものを止揚したことによって自己展開の可能性をもった精神とは、過去と未来をともに含む現在として永遠の現在とあるとも考えられる。『自然哲学』において、ヘーゲルは-ハイデガーも『存在と時間』でとくに論評することなくそれを引用しているが-その永遠の現在について次のように述べている。「具体的な現在は過去の成果であり、また将来をはらんでいる。したがって真の現在は永遠である」(E.N.§259.S.55)。また『歴史哲学講義』においても、真理を探求する哲学にとっては「永遠に現在するもの」こそが問題であるとされた後、なるほど過去の諸段階は次々と現われたとはいえ、「精神が即自的に精神であることはつねに変わりはなかった」とされる(30)。ヘーゲルの『自然哲学』における時間は、ハイデガーが指摘したように本来的な時間性が平板化した一つの姿であるとしてもよいであろう。だが、ヘーゲルのいう永遠の現在までも同様なものとして捉えることはできないと考えられる。むしろ、過去と未来をともに含むそうした現在こそが人間における時間性と歴史性を可能とするのではなかろうか

 ハイデガーは『現象学』における生命論にもとづいてヘーゲルにおいては「存在の本質が時間の本質である」としたが(31)、ヘーゲルはその生命の把握から自己意識の存在を導き出している。『現象学』の「意識」の章において、意識の経験の運動がそれ自身とは異なったものを本質としていた意識から自己意識へと転換するのは、意識が世界の内に自らと同様の運動性をもつ生命としての「無限性」を見出したことによるが、「自己意識」の章では、自己意識はより存在論的にそうした生命の運動を基盤としていることが示される。そこでも、生命はまずは「すべての区別が止揚されていることとしての無限性、軸回転する純粋な運動、絶対に不安な無限性としての自分自身の安定」などと規定される(P.d.G.S.136)。だが、実際の生命の運動は、「形態化と生命の過程は互いに帰入しあう。後者は形態の廃棄であるのと同様に形態化であり、前者、形態化も分肢化であるのと同様にその廃棄である」とされるように(P.d.G.S.138)。有機的なそれに準拠して捉えられている。そして、自己意識はそうした生命の運動が自らの内へと帰ってきた統一が「単純な類」であるとされた後、後者はそれを類として認めている意識を指示しているということから導き出されている。すなわち、自己意識とは「それに対してが類としてあり、そして自分自身に対しても(für sich selbst類であるところのこの別の生命」のことである(P.d.G.S.138)。

こうして自己意識は、もちろんはじめからその自覚があるわけではないが、生命の運動の反省態として対自的となった類という構造を有しているのだといえよう。ハイデガーの『ヘーゲルの精神現象学』は『現象学』におけるこのような生命と自己意識の関係を立ち入って考察することなく終わっているが、そうした生命の運動に対して対自的となった自己意識こそ、その過去と未来を含むものとして永遠の現在という性格をもち、人間における時間性と歴史性を可能とするものではなかろうか。そこで、ヘーゲルの存在論の考察に戻り、それを生命の運動の反省態として対自的となった類という構造を有する自己意識が行なう展開をとおして捉え直し、合わせてこれまで残してきた問題-いかにしてヘーゲル哲学を律する円環的な運動性は成立するかなど-にも向かうことにしたい

Posted Under: 哲学・思想

Post By 土屋 敬二 (73 Posts)

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