< 伝承 仏教神話 VW >

〜 日本人と仏教 T 〜


 この世界史的変動の時期に東海の孤島に生を受けて運命をともにしているわれらは、
過去を顧みるに、われらの祖先の文化に無限の愛着を感じることはいうまでもない。わ
れらは過去の日本の伝統的文化に心からなる尊敬と禁じ得ぬ思慕の情を懐く。しかしわ
れらが、いま、かりに日本史上だけに限ってみても、未曾有の重大な転機に遭遇してい
る以上、われわれは過去の文化に対して厳しく批判的であらねばならぬ。たとい先賢古
徳の言なりといえども、それに対してつねに吟味の態度をとらねばならぬ。それは、ただ
先人を批判することではなくて、先人が生みなして、形成してくれたところの現在のわれ
われ自身に対する自己批判なのである。

 人類の過去の歴史を見るに、文化程度の低い民族が必ずしも程度の高い文化を全面
的に受容するとは限らない。異質的な文化の受容が行われるためには、すでにその当
該民族のうちに”受容を可能ならしめる”に足る基盤が用意されていなければならない。

 平安初期の留学僧として著名であるのは、いわゆる入唐八家と称する人々であった
(最澄・空海・円行・常暁・円仁・慧運・円珍・宗叡)。これらの求法者は、留学前にシナ語
を習得する便宜をもたず、かつ、留学期間もおおむね短期であったので、かれらはみず
からシナ語で会話をかわすことができなかった。ただ筆談によっていた。したがって講筵
に列するというよりも、文献・法具を蒐集して帰朝ということに、重点がおかれることとな
った。最澄は、「訳語」すなわち通訳を随伴していたが、その他は、多くは、『筆札を善く
し、華言に通ぜず。問ふところあれば、尽くこれを以て対す』『華言に通ぜず、書札を善く
す。命じて牘を以て対せしむ』というように、筆談によっていたもののごとくである。

 なるほど日本人はシナ文化を多分に摂取した。ことに思想形態に関してはシナ文化に
非常に制約されていた。しかし日本人は決してシナの思想を必ずしもそのままには受容
しなかった。そのもっとも著しい例としては、シナ人の書き記した漢文を、原意のとおりに
受けとらないで、それにきわめて勝手な解釈を施している。すなわち漢文に厳密な文法
がないので、その点を利用して、自己の思想の発表に都合よいように、自己の思想を読
みこんで、恣意的な解釈を行ったのである。たとえば仏教徒の場合についてみよう。なる
ほど『南都北嶺のゆゆしき学生だち』は漢文の読み書きが正確であった。正確であった
ということは、シナ的な思惟方法にそのまま従っていたのである。ところが仏教を日本の
一般民衆の間にひろめた宗教家たちは決してそうではなかった。とくに日本的特徴が認
められるといわれている仏教家ほど、ますます漢文に対して無理な解釈を施している。
たとえば親鸞は必ずしも漢文を原意のとおりには読まなかった。このことは、浄土真宗
の伝統的教学をまもる正統派の学者自身がはっきりと認めている事実である。道元も漢
文の文脈を無視した解釈を行なっている。

漢文は決して原意のとおりに理解されなかった。

 おそらく日本人としての心理的な思惟の進行過程が、漢文の言語形式にぴったりとそ
ぐわない点があるからであると考えられる。

 「仏教は日本に来てはじめて釈尊の真意を顕彰した」などという日本の仏教徒の一般
的見解が、はたして真実を伝えているであろうか。かれらひとりよがりの独断でないとい
いうるであろうか。われわれはこの点についても、とくに厳密な検討を加えたいと思う。

 日本人の思惟方法のうち、かなり基本的なものとして目立つのは、生きるために与え
られている環境世界ないし客観的諸条件をそのまま肯定してしまうことである。諸事象の
存する現象世界をそのまま絶対者とみなし、現象をはなれた境地に絶対者を認めようと
する立場を拒否するにいたる傾きがある。このような思惟方法にもとづいて成立した思
惟形態は、明治以後の哲学者によって「現象即実在論」と呼ばれ、一時、世に宣伝せら
れたが、その淵源はきわめて古いものである。

「神まさぬ方はあらじな荒汐の 汐の八百重も荒山中も」
(出雲大社神道神主千家尊澄)
仏教哲学もこのような思惟方法にもとづいて受容され、消化された。

 「本覚法門」、現象界の諸相がそのまま仏それ自身にほかならぬと主張するのであ
る。「本覚」ということばは、インドでつくられた『大乗起信論』(漢訳)のなかにあるが、そ
れは現象界の諸相を超えたところに存する究極のさとりの意味であったが、いまや日本
ではそれが現象世界のうちに引きずり下ろされた。こういうわけで、日本天台の特徴は
「理」よりも「事」を重視した点にあるが、それはこのような思惟方法にもとづくのである。
日本天台の学者はシナ天台の原典の文句にかならずしもそのまま準拠しなかった。この
ような「現象即実在論」的立場に立って、原典に相当無理な解釈を施している。
日本天台の思想の発展であるところの日蓮宗がまたこのような思想を強調していること
は、当然である。

 シナへ来たクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)は、サンスクリット語のdharmata,などという語
を「諸法実相」と訳した。それは、われわれの経験する諸現象の真実の姿、という意味で
ある。だから「諸法」と「実相」とは異なった概念であるのみならず、両者の間には矛盾対
立が予想されている。ところが天台学においては、「諸法は実相なり」という解釈を成立
させて、いわゆる現象即実在論の立場に立ったのであるが、道元はむしろ逆に「実相は
諸法なり」ということを強調する。

 道元はシナの禅宗の思想に対しても批判的立場に立っている。道元はシナの禅に対し
ても、自分の特定の立場からみて、選びとっているのである。

 道元の説いた仏教は、インドの仏教徒一般あるいはシナの禅宗一般の強調したところ
とは、やや内容を異にしているといわねばならない。

 草木にまでも精神性を認めるという思想は、インド仏教にもすでにあらわれている。の
みならずインドの哲学諸学派がこのような見解を採用している。しかしインドの多くの哲
学思想によると、生きとし生けるものは明知によって解脱しうるのであって、草木が草木
のままで成仏するという思想は説かれていないようである。

 日本人一般の観念は、自然科学的知識の普及した今日においても、なお有力にはた
らいているように思われる。たとえば日本人は一般に「お水」「お茶」というように種々の
事象に「御」という敬称をつける。事物につねに敬語を附して日常会話しているところの
民族は、おそらくほかにはないであろう。ところが日本人たちの間にあっては、さほど奇
異な感じを与えない。これを単なる敬称とみなすことは困難である。むしろ、いかなる事
物にも神聖性と存在意義を認めようとする思惟方法がはたらいているのであると考えら
れる。西洋人の批評によると、日本人にとっては、”everything is Buddha”なのである。

 現象界における絶対的意義を認めようとする思惟方法は、発生的・歴史的にみるなら
ば、日本人が自然を愛好する態度にもとづいて起ったものではないかと考えられる。

 自然愛好の詩は、インドの出家修行者によっても作られた。しかもインド人の場合には
人間的な愛着・煩悩・束縛からのがれ去ったところの場所としての自然がたのしまれ、讃
嘆されているのである。だからそこにおいては、自然は人間に対する否定的なものとして
対立しているのである。

 ところが日本人の場合にあっては、出家した人でも、人間と一体である自然に対して愛
着を有し、その愛着を心ゆくままにたのしんでいるのである。心身の煩悩をのがれようと
して樹下石上に坐して修行していても、花の下にあれば、いつしか花を楽しみ花を喜ぶ
人になってしまう。

 人間の欲情に対してきびしい態度をとったことでは鉄石のようであった道元も、自然に
対してはやさしい愛着をもち、捨てがたい情を示している。

 この風土においては、自然は人間に敵対するものでもなく、また威圧するものでもな
く、むしろ親和感をもってわれわれを迎えるものと感ぜられた。そこで、その結果として、
自然は人間にとって比較的に恵み深いものであると受けとられた。もちろん天災地変が
多いということは日本の国土の一つの大きな特徴であるが、それらは一時的な現象であ
り、毎日24時間を通じて人間に対している自然は、心理的には明らかに異なった印象
を与える。そこで日本人は一般に自然を嫌わないで、むしろ愛好し、また自然を恐ろしい
もの、威圧的なものとも考えないで、むしろ親しいものとみなした。したがって自然は人
間に対立するものではなくて、むしろ人間と一体になるものと考えられた。こういう理由
が潜在するのではないか、と思われる。

 世界の諸宗教がややもすれば、現世を穢土とし、来世を清浄な楽土とし、永久に幸福
な天国を理想としているのに、原始神道はどこまでも現世に価値を認める。民族の各自
はみな神々の子孫と考えられている。また原始神道には、霊魂に関する深い反省が存
在しなかった。死についても深い考察を行わなかった。

日本の神話では未来の世について何事も述べていない。

 古代日本人が死を恐れていたことは明らかに示されてはいない。死んでから先にどう
なるかということについては少しも考えていないようである。神話全体が現世に愛着をも
ち、現世の世を重んじている。したがって因果応報というような形而上学的な観念も存在
しなかった。かれらは、死を汚れと見なして、生のみを楽しんでいたのである。

 しかし人間がひとたび哲学的あるいは形而上学的な疑問を懐くならば、このような安易
な信仰に、そのまま信頼し安心しているという状態をいつまでもつづけることはできなか
った。ひとびとは何かしらもっと奥深い人間の真実の姿に触れたいと願うようになった。
このような精神的要求に応じて、仏教が滔滔とはいってきたのである。このような反省に
ついては、どうしても仏教のような高度に発達した宗教にたよらざるをえなかったのであ
る。

 仏教は短い時期の間に、日本のすみずみにまでひろまった。しかしながら日本人一般
の現世主義的傾向を完全に改めることはできなかった。むしろ日本人は、大陸から受容
した仏教を、現世中心的なものに変容してしまったのである。
 仏教の伝来および伝播とともに、日本人は死後のことを考えるようになったけれども、
その仏教さえも、むしろ現世的なものとして受容されている。奈良時代・平安時代を通じ
ての仏教は、ほとんどすべて現世利益をめざしたものであり、祈祷呪術の類が主であっ
た。

 日本人の現世中心的な思惟方法は、仏教の教理をさえも変容せしめている。インドの
多くの仏教徒の見解によると、生きとし生けるものは、無限に輪廻の過程を繰り返すの
であり、現世の生涯はその無限の循環過程のうちのきわめて短かな一時期にすぎな
い。釈尊といえども、過去の無数の生涯において幾多の善行を積んだので、その果報と
してこの世で修業を行ない、仏となることができた。その修行も、凡夫は一生涯の間にな
しとげることができない。幾多の障害にわたって修行をつづけなければならない、という
のである。インドの仏教徒がすべてこのように考えていたわけではなかったが、インドの
一般民衆の見解は上のごとくであった。ところが仏教が現世中心的なシナ人によって変
容せられ、それが日本に入るとともに、著しく現世中心的な色彩を濃厚にしてきた。日本
仏教の多くの諸派は、凡夫といえども現世にさとりを開いて覚者となりうるものである(即
身成仏)ということを強調する。

 現世主義は最澄にあっては、まだ不徹底であったが、のちの日本の天台学者はさらに
それを現世主義の方向に徹底させている。シナ天台においては、実際問題としては現世
成仏を許さなかった。

 天台の学匠・安然は、現生において成仏しうるのはもちろん、一生のみの修行で成仏
しうる、この身ながら仏となることをも許される、と説いている。

 現世主義は日本真言宗の開祖・空海においても明瞭に表明されている。空海の説によ
ると、世間も衆生もすべて地・水・火・風・空・識という六つの構成要素より成るものであ
るが、それは絶対の真理(法界)を本性としていて、たがいに無擬渉入の関係にある。衆
生と仏とは平等であり、本性においては同一のものである。この道理を観察して、手に
印契を結び、口に真言を事誦し、心を統一するならば、衆生の身・口・意の三業と合一す
るというのである。かれはとくに『即仏成仏義』という書をあらわした。かれは『父母の生
みたる身のままにて大なる覚りの位を証する』という密教の教説を主張している。ついに
その末流では、生きながらミイラとなるという修行を成立せしめた。

 地蔵菩薩の信仰が平安時代以降盛んになったが、それも一般の日本人が、凡夫を凡
夫の身そのままで救いとる大慈悲にすがろうとしたためである。

 浄土教が現世における積極的活動を意義づけようとするものであるということは、のち
に論じることにしてここでは省略する。ただし、インドの浄土教によると、現世の世界は
汚濁にまみれた穢土であり、とうていわれわれ凡夫はここで仏道を修行することはでき
ないから、来世にはより良き世界である極楽浄土に生まれて、そこで阿弥陀仏のもとで
仏法を聴聞し修行して、ついに涅槃を得ようと願うのである。ところが、日本の浄土教、
ことに真宗によると、極楽浄土に生まれることと涅槃を得ることは同一のことがらである
(往生即涅槃)。だから日本の浄土教にあっては、穢土である現世の地位が、インドの浄
土教徒の考えていた極楽浄土に近い地位にまで高められたと批評してよいのではなか
ろうか。これも日本民族の現世主義的傾向にもとづくと考えねばならないであろう。

 神道家は浄土経典のうちで現世的な教説のみを選びとったのである。したがって日本
仏教で強調した即身成仏の思想は、容易に神道と結合することができた。

 日本人は仏教の渡来する以前から現世中心的・楽天主義であった。このような人生観
がその後にもながく残っているために、現世を穢土・不浄と見なす思想は、日本人のうち
に十分に根をおろすことができなかった。だから仏教で説く「不浄観」も、そのままでは日
本人に採用されなかった。

 厭世観も日本でははっきりしたかたちではあらわれなかった。

 西洋でいう厭世とは、この世の生存が厭になることである。日本人の場合には社会的
な煩わしい束縛・拘束をうるさく思い、それから離脱しようと思うだけである。ゆえに人間
社会から遠ざかって花鳥風月に近づけば、それだけで厭世的な思いはなくなるのであ
る。西行法師は、世を遁れたとはいうものの、一生行脚の生活を送って花月を楽しんで
いる。鴨長明は世の中をあじきなく思っても、庵室にひとり閉じこもって自然を満足してい
る。深草の元政上人や、近くは太田垣蓮月でも、世の中に立ち交わるのは好まなくて
も、自然そのものは別に楽しんでいた。だから厭世観はただちに自然への愛着となって
あらわれる。

 日本人は、外的・客観的な自然界に対してそのあるがままの意義を認めようとしたのと
同様に、人間の自然な欲望や感情をもそのままに承認し、しいてそれを抑制したり、あ
るいはそれと戦おうとする努力をしない傾向がある。

 近世仏教者のうちで民衆に仏教をひろめたという点できわめて功績の多い慈雲尊者
飲光は、かれの諸種の仮名法語のなかで、道徳とは人間の自然の本性に従うことであ
る、ということを説いている。

 インドの原始仏教ないし伝統的保守的仏教においては、修行者は人間の喜怒哀楽の
感情を消滅するのがその理想であると考えられていた。釈尊がなくなったときに、その愛
弟子であるアーナンダが涙を流して悲しんだのは、修行未熟のゆえであると非難され
た。ところが仏教が日本にはいると、日本的特徴の顕著な、情にもろい日蓮は、感情を
おさえなかった。

 戒律の破棄ということは、とくに浄土教徒の間で盛んであった。

 戒律を守らぬという点では、日本の浄土教は実践的にはシナの浄土教徒はまったく異
なったものになってしまっているということを、すでに日蓮が鋭く指摘している。

 また戒律無視の傾向は、禅宗にもあらわれていたらしい。

 そうして明治維新以後には、仏教各宗とも、ほとんどすべて戒律を捨て去ってしまった
ことは、周知の事実である。だから浄土教徒にとっては、ただ念仏を唱えさえすればよ
い、また日蓮信者にとっては、ただお題目を唱えさえすればよい、また一部の人々にとっ
ては、なんらかの経典を読誦し、陀羅尼を諷誦しさえすればよい、ということになったの
である。
 戒律破棄の例として一番顕著な、またありふれたものは、飲酒であろう。インドの仏教
徒は、酒を飲むということを宗教的には非常に大きな罪過と考えていた。だから「不飲
酒」ということは、五戒の一つとされ、出家修行者はもちろんのこと、一般在俗信者とい
えどもこれを厳守しなければならぬのである。不飲酒の戒は、インドでは原始仏教の時
代から大乗仏教にいたるまでよく遵守せられた。(ただし堕落した後期の密教の場合は
例外である)シナでもなおよくこの不飲酒戒が守られていた。ところが日本にくるととも
に、それが破れてしまった。法然は『酒のむは罪にて候か』という質問に対して『まことに
は、のむべくもなけれども、この世のならひ』と答えている。親鸞も日蓮も、必ずしも飲酒
を、悪と思っていない。日蓮は『ただ女房と酒打ち飲みて、南無妙法蓮華経と唱え給へ』
と教えている。
 修験道では、『南無大悲観世音』と書いたものを酒の中に入れると、悪い酒も良い酒に
なる転化してしまうと教えている。

 飲酒とならんで男女の性の関係が、日本では仏教のうちに位置をしめることがあった。
すでに日本の文芸作品について認められるところであるが、『源氏物語』などにおいて
は、淫蕩な場面や、不倫な人物が描かれていることが多いが、それすら美しさを失わぬ
ものと認められている。これが日本の文芸の一つの伝統となっていて、儒教の倫理観と
は截然と対立している。仏教の場合にも上述の傾向が認められる。インド仏教の末期に
おいては、仏教の一部では風俗を乱すような儀式も行われたが、シナの仏教において
は、そのようなことはほとんど行われなかった。密教も純粋化してシナに伝えられ、それ
が弘法大師によって日本に伝えられた。弘法大師空海に由来する日本真言の行者は、
もっぱら清浄な修行の毎日を送っていた。ところが平安朝末期になると、立川流の邪義
のようなものがあらわれた。それは男女陰陽の道を即身成仏の秘義とみなすものであ
る。このような乱倫非行の秘義は、鎌倉時代初期から中期にかけても諸地方で行われ
ていたようである。末期のインド密教には頽廃的現象が認められるが、シナの密教では
それが浄化されてこのような傾向はきわめてわずかしか認められなかったにもかかわら
ず、日本でまた復活したのである。たとい民衆のきわめて一部にこのような傾向があっ
たのだとしても、このような特徴の差異をまったく無視することはできないであろう。

 近松門左衛門は相愛の男女の心中の道行の最後を叙するにあたって、情死の美しさ
を歌い、『この世も名残り夜も名残り・・・残る一つが今生の鐘の響きの聞きをさめ、寂滅
為楽とひびくなり』という。「心中」とは日本独特の現象であり、double suicide とか 
Selbstmord eines Liebespaares という西洋語ではその情緒を表現することは不可能で
あるが、ともかく、「寂滅為楽」が、インドやシナでは世俗的な煩悩の否定を意味していた
のに、いまや日本では現世的な性愛の純粋化の極致を示すものとして用いられている。
徳川時代の諸種の文芸作品においては、仏教の神聖なるべき諸種の観念を示すことば
が、淫乱遊蕩の場面を示す隠語として用いられている。宗教の神聖性をこのようなかた
ちで侮辱することは、インドにもシナにもあらわれなかった。おそらく日本独特の現象で
あろう。

 日本人のように、仏教の戒律をほとんど全面的に放棄してしまった民族は、東洋の他
の国々には存在しないのである。この現象をわれわれはいかに解すべきであろうか。

 肉食は、原始仏教では一定の条件のもとに認めたが、大乗仏教では多く禁じている。
飲酒は、小乗仏教でも大乗仏教でもともにこれを禁じている。僧侶の結婚は、後期の密
経における場合の他には認められなかった。これらは宗教的には重要な問題であるが、
閉鎖的な人倫的組織の利害の維持という観点からみれば、どちらでもよいことなのであ
る。戒律は守らぬが、閉鎖的な人倫的組織の利害問題に関しては献身的であるというこ
とは、あまねく日本人一般に認められる現象である。そうして、この態度があるために、
日本人は自然の欲情を肯定し、また戒律を破棄しても、必ずしも道徳的秩序を捨て去る
ことにはならぬと考えているのである。

 日本における指導精神の欠如を問題として、いま、ひとびとは口を開けば、宗教家の
腐敗堕落を云々する。しかしそれは宗教家のみが責任を負うべき事象ではなくて、過去
からの日本人全体の思惟方法にもとづいて起った事象なのである。われわれはこの点
について深く省察せねばならない。

 以上は主として宗教の領域について考察したのであるが、それにおけると同様な思惟
方法の特徴が、他の領域についても認められるように思われる。

 日本人は原始仏教以来厳格な戒律の実践を「律宗」として受容した。それはむしろ隠
遁的な修養法であった。ところが、のちに真言律宗が起ると、たとえば「忍性」(1217〜
1303)は、悩める人々、病める人々を救済するために、幾多の社会活動を行なった。
かれは一生を他人への奉仕にすごした。かれはそのためにかれの師から『慈悲が過ぎ
た』とさえ批評されている。池や井戸を掘ったり、病人のための医薬・衣類を貯えたり、
金銭を用意することは、古来の戒律には違反することであるが、かれはこの点を少しも
顧みなかった。

 シナの禅宗は、道教その他古来の伝統的なシナ思想の影響を受けて、隠遁的・諦観
的となり、進んで慈悲行の実践につとめるということを閑却していたのではなかろうか。
シナ禅宗史全般について検討してみたうえでないと断定的なことはいえないが、なんとな
くこのような印象が与えられる。
 ところが禅宗が日本にはいると、他の諸宗派におけると同様に、慈悲行を強調するよ
うになった。臨済禅を日本に導き入れた栄西は、慈悲の観念を表面に出している。

 慈悲の精神は、単に仏教者が説いたというふうにとどまらず、神道のうちにもはいり、
三種の神器と一つと結びつけて考えられたのみならず、一般世人の間に普及し、武士の
主要な徳の一つと見なされてきた。
 他人に対する愛情は、自分自身の独善的ひとりよがりからはあらはれ出てこない。わ
れもひとも、ともに凡夫であるという謙虚な反省と相即するものである。このことは、すで
に仏教が日本に移入された最初の時期に聖徳太子によって強調せられた。

 人間に対する愛情は、戦争に対する観念の相違をもたらす。日本では他の国々にお
けると同様に戦争はしばしば行われたが、戦争がすむと、勝利者はひとり自分たちの戦
没者のみならず敵軍の戦没者の冥福を祈るということを行うのがしばしばであった。

 敵も味方も仏の慈悲のもとにはすべて救われるというのは顕著に仏教的な思想であ
る。(西洋思想によれば、宗教戦争における敵は絶対に救われないのである)

 日本において愛情が強調されているという傾向は、本来、日本民族に固有のものであ
るかどうかということについては、大いに問題が存する。神道には愛の神がないというこ
とを、かつて、ある有名な仏教学者が主張したために、神道側に強い衝撃を与え、大き
な問題となったことがある。

 おそらく慈悲の精神なるものは仏教とともに日本にはいってきたものであり、日本人の
心的態度一般に対して強い変革的な影響を及ぼしたのであろう。そうして、こういう点で
日本人の民衆の思惟のうちには多分にヒューマニスティックなものが流れていると見な
すことができるであろう。
 人間に対する愛情は、日本人の間に古来存する美しい自然に対する愛着、花鳥風月
に対する愛情と密接な関係があるように思われる。
(なおここで問題となることは、かくも人間に対する思いやり、愛情を重んじる日本人が、
最近の世界大戦の際などに、なにゆえにある場合には非人道的な行為をも行ったか、と
いうことであるが、これについては後に「力による人倫的組織の擁護」の項でさらに考察
することにしたい)

 日本人は古来寛容の徳の著しい民族であるといわれている。

 日本人の寛容な精神は、罪ある者をも深刻に憎悪することがない。

 だから寛容の精神に富む日本人にとっては、永遠の罰ということは、まったく考えられ
ないのである。

 「一切衆生悉有仏性」(生きとし生けるものはすべて仏となりうる可能性がある)という
見解があまねく採用されるようになった。

 一般日本人は死人のことをよく「ほとけ」と称する。

 このような寛容宥和の立場のゆえに、日本の仏教には、諸宗派の連続的発展という現
象が認められる。今日インドにはもはや仏教の伝統は存在しない。シナにおいても浄土
教と合致した禅宗のみが残り、仏教界がすべて一様化してしまって、往昔の諸宗派の伝
統はほとんど消失してしまった。ところが日本において、今日のシナにももはや見出しえ
ないような昔からの幾多の宗派が存在している。

そうして日本においては諸宗派が残存し、宗派的・派閥的傾向が顕著であるにもかかわ
らず、多くの日本的な仏教家は、いずれも他の諸宗派を非難することを禁じている。

日本人は、宗派的・派閥的傾向がきわめて顕著であるにもかかわらず、他の見解を懐く
人々と理論的に争おうとはしないのである。

 仏教は日本のもろもろの原始信仰に対してきわめて寛容であった。仏教においては異
教という観念が明白でなかった。仏教からみて異教的なもの、すなわち日本古来の民間
信仰における神々は「権現」として仏教に宥和せられた。本地垂迹説のごときがそれで
ある。すでに用明天皇は『仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ』といわれている。ここ
でいう「神道」が何を意味するかは、なお問題であるが、奈良時代にはすでに神仏習合
思想があらわれていた。それによると、神は仏法を悦び仏教を擁護するものであるが、
しかし神は衆生の一つであり、人間と同じく迷界の中の一存在であって、やはり煩悩を
脱していないから、仏法によって解脱しようと求めるものであると解した。奈良時代にす
でに神宮寺がつくられていた。神護景雲元年の宣命には、祥瑞の出現を、仏と日本の天
地の神々とおよび歴代天皇の御霊との賜であると述べてある。

 民衆の間における古来の神々に対する信仰は依然として根強いものがあったので、仏
教者はそれと妥協せざるをえなかった。古来の神々に地位が高められ、平安朝初期か
らは、神々に菩薩号が附せられ、神前読経が行われた。神々は迷える衆生の地位か
ら、さとりに向かう人、あるいは衆生済度をなす人の地位にまで高められたのである。最
澄と空海とは努めて神社に近づき、これを尊奉するとともに、神威を仰いで自己の宗派
の興隆を図ろうとした。

 日本の古来の神々を権現とみる思想は、平安朝中期の寛弘年間の典籍にあらわれ始
めた。後三条天皇の治世以後に、各神の本地が何であるかということが問題とされた
が、源平時代に入るに及んで、これこれの神の本地はこれこれの仏である、ということが
漸次に定められた。承久時代になると、ついに神と仏とは同体である、という思想が成
立した。
『仏と云い神と云ふは、無異無別なり』
『仏神たい(体)ことなりといへども、内外一なり』という。

 中世の仏教徒は、きわめて神典を尊重し、真摯かつ敬虔な態度をもって研究にあたっ
た。今日現存するところの代表的な神典、たとえば『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』な
どの古写本は、ほとんどすべて中世の仏教寺院僧侶の手によって書写奥書され伝承保
存されてきたものである。

 日本古来の神々は、その自然宗教的神性から仏教的神性へ高められつつ、なお自己
の存在を保っていた。この点は西洋において、たとえばクリスマスの習俗のうちに古代ゲ
ルマン宗教の名残があるのとは大いに相違している。したがって日本人は仏に帰依する
ために古来の神に対する信仰を捨てなければならぬとは感じなかった。そうして「神仏」
という一つの観念が成立した。

 近世にはいって、支配階級の政治権力の援助のもとに儒学が盛んになると、儒学をも
神・儒・仏の三教一致の説が、あまねく唱導されるようになった。

 一般の日本人はキリスト教をも古来の信仰とさほど矛盾しないと考えているのである。
明治維新以後80年の間に、キリスト教信者の数はきわめてわずかしか得られなかった
が、キリスト教的教養が相当に広くひろまったということはこのような理由にもとづくもの
であろう。
 古来寛容な精神があるゆえに、日本においては異端者あるいは異教徒を殺戮すると
いうことはついに起らなかった。この点は西洋の場合と大いに異なっている。宗教の問
題に関する限り、日本には「和」の思想が著しい。なるほどキリシタンに対する全面的・
徹底的な迫害が行われ、また地域的には浄土真宗信徒に対する迫害が行われたし、ま
た日蓮ならびに日蓮宗の不受不施派に対する弾圧はきびしいものであった。しかしそれ
らの宗派は支配者の定めた封建的社会秩序ないし特定の人間結合をそこなう恐れがあ
るから行ったのであって、それを害する恐れが無ければ、宗教は何でもよかった。西洋
では宗教信仰が違うというそれだけのことが対立抗争をもたらす旗印となったが、しかし
日本では種々なる人倫組織の秩序を破壊することがなければ、宗教信仰に関しては一
般に無関心であった。

 聖徳太子によれば、あらゆる生きとし生けるものの「軌範」となっているものが「法」で
あり、「仏」というものも実は「法としての身体」(法身)であり、それが『理と和合すること』
がサンガであるという。したがってその内実においては、「法」という一つの原理に帰一し
ているのである。
 日本的色彩の濃厚な鎌倉時代の仏教諸派においても、なお、仏教の説く法が普遍的
なものであるという自覚は失われていなかった。道元はいう、『仏々祖々、道に在りて弁
ず。道に非ずしては弁ず。法ありて生ず。法無ければ生ぜず』 ここでは法も同義に解
せられている。親鸞自身も竜樹の『法を見、法に入り、法を得、堅牢の法に住して、傾動
すべからず』という文を引用している。また日蓮は、真理として『法華経』を仏よりも以上
に尊重している。『問うて云く、然れば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題
目を本尊とするや。答ふ・・・仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神』『法華
経は仏にまさらせ給ふ事、星と月と燈と日の如し』
 しかしながら日本人の間では、このような普遍的な方を個別的あるいは特殊的な相に
即してのみ理解しようとする思惟方法が著しくはたらいている。そうして日本人は、種々
の思想に対する価値批判の基準を、歴史的・風土的な意味における特殊性あるいは個
別性を重視するというしかたに求めた。
 日本仏教諸宗派の基本となった教学は天台教学であるが、シナの天台宗が「理」を重
んずるのに対して、日本天台においては「事」を強調する。「事」とは空間的・時間的に限
定せられた現象的特殊者あるいは個別者である。

 日本における朱子学は林羅山によって官学たる地歩を確立したといわれているが、し
かしかれにあっても朱子の思想が決してそのまま尊奉されていたのではない。朱子にあ
っては「気」は形而下の万象を成立せしめる質料的原理であり、「理」はそれの形而上学
的根拠として考えられていたが、林羅山にあっては、朱子学の現実的解釈あるいは適応
という段にぶつかると、たちまちにして日本的性格を露出する。かれによると「理」とは日
本の神道のことにほかならない。『神道は即ち理也。万事は理の外にあらず、理は自然
の真実也』 ところで彼の意味する神道とは、天照大神以来の皇道のことなのである。

 (中江藤樹)かれは、日本人は日本の神道に従うことにおいて太虚の神道に従うことに
なると考えていた。
(熊沢蕃山)かれによれば仏教はインドには必要な教えだが、日本にとっては不要なの
である。
賀茂真淵は、儒教が日本にとって無用なものであるということを主張していう、『かれが
本とする孔子のをしえすら、用ひたる世々、かしこ(唐土)にもなきを、ここ(日本)にもて
来て、いかで何の益にかたたむ』 このような見解はその後の国学者たちによって極端
にまで徹底せしめられた。

 「歴史的に制約された現在の日本」という観点に立っていっさいの思想に対する価値評
価を行おうとすることは、日本の思想に著しい特徴であって、このような態度はインドに
もシナにも存しなかった。

 日本思想が世界一般の文化に貢献したところはきわめて僅少である。これに反して芸
術ことに美術の方面においては日本は世界に非常な貢献をした。西洋美術に与えた日
本美術の影響だけをとってみても、もはや消し去ることのできないものがある。ところが
思想の方面では、日本はほとんど何ら影響を及ぼしていない。(唯一の例外は禅であ
る)

 日本に儒教が入ったのも、シナが日本に押しつけたのではなくて、日本が自動的に摂
取したのである。

 太平洋戦争の以前から、日本人は日本固有の宗教である神道を東洋諸国にひろめよ
うとして失敗した。しかしそれが失敗したことは十分に理解しうる。なんとなれば神道は
日本人の民族宗教であるから、他民族の民族宗教にとってかわろうとすること自体がそ
もそも不可能な企てであるからである。しかるに東洋諸国に進出した日本仏教諸宗派の
伝道も同じく失敗に帰した。それは何故であるか?仏教はもともと普遍的・世界的宗教
であるから、日本仏教といえどもとうぜんこのような性格を具備すべきである。しかるに
同じく仏教を奉じ、あるいはかつて仏教を奉じていた諸民族から一斉に反撥された。この
ような反撥を受けた理由はどこにあるか?それは仏教そのものにあるのではない。そう
ではなくて仏教に付随していた「日本的」なるものが反撥を招いたのである。
 個別的な事実あるいは特殊な様相にのみ注視する思惟方法は、やがて普遍の裏づけ
を見失うこととなるために、ついに無理論の立場あるいは反理論の立場に陥ることにな
る。そうして合理主義的思惟を蔑視して、無統制な直観主義や行動主義に帰投するよう
になる。過去の日本の過誤はここに起因していたのであり、今日なお日本の危険はここ
に存するのである。今後われわれは特殊的な「事」を通して普遍的な「理」を見出すとい
うことをめざさなければならぬであろう。

 日本人は、その寛容なる包容的性格のゆえに、種々なる外来文化をさほど摩擦を起こ
さずに摂取し包容した。そうして種々なる文化的要素にその存在意義を認め、過去から
伝承せられたものをなるべく保存しようとする。種々の異質的な要素を併存せしめつつ
も、その間に統一を見出そうとする。
 このような傾向は種々なる文化領域について認められる。
 まず、民族に普遍的な言語について考察すると、日本語の特性として著しいことは、外
来語の多いことである。重要な概念を示す単語はすべて漢語である。また近来は西洋語
の単語もかなり多くはいっている。諸言語において容易に変化せぬものである数詞まで
も、シナのそれを採用してしまった。採用された外来語は、ときにはその原義から異なっ
ているとこもあるが、大体において原義のままに使用されている。また語としては古来の
日本語のままであっても、それを表記するのに漢字を用いる場合が少なくない。かくも多
数に外来語を摂取したことは、他の文化民族の諸言語には例が少ない。

 文化の重層性ということは、種々なる面に認められる。日本の政治においては古来徹
底的な革命が行われなかった。一時代の支配階級がその後になっても没落しない。支
配階級の間に政治的重層性が認められ、古い時代の支配階級は、たとえ政治的方面に
おいては支配者的地位を喪失しても、なおその伝統的な貴さが認められ、古い文化的伝
統の保持者、精神的権威として尊敬せられた。これはインドにもシナにもチベットにも認
められない政治的現象である。もっとも、ウラル・アルタイ系の諸民族にはこのような傾
向が認められるようであるが、日本の場合が最も著しい。
 日本人の衣食住の日常生活の様式の上にも重層性が認められる。芸術の領域におい
ても古来の種々なる様式が新しい様式と相並存し、互いに相対立しつつ、その対立にお
いて統一されている。宗教においては互いに異なった信仰様式がその特殊性において
対立しつつも相併存しているのみならず、同一人の生活においても生きてはたらいてい
る。
 文化における矛盾した諸契機をそれぞれ特殊な意義において生かしつつ具体的な統
一をかもし出すということは、たしかに日本人の実際的な長所であろう。しかしながら多く
の場合には便宜主義的・機会主義的立場から折衷融合している場合が多いようである。
日本人はその人間関係重視的・非論理的性格に災いされて、徹底した対決の精神がな
いと考えられる。
 これは政治など具体的な社会的行動についても認められるところであるが、論理的対
決を必要とする思想的部門についてみると、とくにはっきりしている。仏教についてみる
と、現在の僧侶ならびに信徒の生活は、明治維新以前とはまったく事情が一変してい
る。したがって古来の教義と現実の生活の実情とはまったく乖離しているのに、この空隙
あるいは矛盾を思想的に解決しようとはしない。とくに戒律の問題に関しては思想的混
迷がはなはだしい。たとえば、仏教徒であるかぎり、僧侶でも信徒でも、飲酒ということは
絶対に許されぬはずである。しかしこれを犯して怪しまない。また僧侶の結婚は、もしも
日本各宗の開祖の言行を絶対権威として仰ぐ以上は、浄土真宗以外では、許されぬは
ずである。だから宗祖のとおりの行業を守るか、さもなくば宗祖にそむいて、インドの一
部の大乗仏教の僧侶、ネパール・チベットの僧侶、浄土真宗などのように在家の僧侶と
いう立場をはっきり表明して宗祖の権威を捨て去らねばならない。だから日本の仏教徒
には、理論的徹底性とそれにもとづく決断とが欠けている。おもてに標榜する教説と現実
の行為との矛盾に気づいていても、それについて理論的な反省を行おうとしないのであ
る。(これは、西洋の哲学思想が明治維新以後急速なテンポをもって摂取されたが、そ
れに対する批判的研究が十分に行われなかったという思想史的事実と併行的な精神現
象であると思われる)
 理論的な対決批判の精神の欠乏に対応して、日本の文芸作品には、たとい観念的に
なるにもせよ一つの理念を徹底させようとする気迫に乏しい。芳賀矢一博士はいわれ
る、「日本人の性情には世の中に対して無暗に腹を立てたり、無暗に悲しがったり、無暗
に嘲笑したり、無暗に高くとまったりする様な痕跡が少ない。我文学の単純なのは之が
為である」 仏教文芸でも、一般日本人に愛されているものは、多くは徹底性を欠いてい
る。

 鴨長明の「方丈記」を批評して山田孝雄博士は次のようにいわれる。
『作者は仏教の思想に基づきて、無常を観じ、世を遁れたるものなれど、天を怨むるに
もあらず、世を詛ふにもあらず、淡泊に世を離れて閑居し、消極的ながら自己の境地に
一種の安慰を見い出せり。さればその無常観も厭世主義も共に徹底せざる観あり、これ
或は日本人が根底に於いて楽天的なるのいたす所か』
「徒然草」の兼好法師もおもてには仏道修行を礼讃しながら、しかも現世的享楽に対す
る欲望を露骨に表明している。

 日本の文芸作品には、徹底的に何もかも一切の所有を捨て去った隠者というものを描
くことを好まないようである。この点ではインドの仏教文芸作品とは、著しく異なってい
る。

 日本人の間に理論的な反省と徹底性がないということは、その反面に滑稽洒脱の態度
となってあらわれている。日本人は滑稽洒脱の文芸として、川柳・俳句その他種々のも
のをもっているが、それは外国におけるような鋭い根底をつくような批判とはならずに、
単なる滑稽に終わっている場合が多いように思われる。日本人一般の間に滑稽洒脱の
態度が著しいことは、すでにしばしば論ぜられているから、いまここで取りたてて論ずる
ことは省略しておこう。ただ、まじめに受容されたはずの仏教でさえも、滑稽感の対象と
されているということを、一言述べておきたい。
 すでに古く「万葉集」においても、仏教の僧侶が滑稽な笑いの対象とされている。
『法師らが 鬚の剃杙 馬 つなぎ 痛くな引きそ 法師欠らかむ』
 仏教に関する事柄を滑稽の材料として扱うということは、近世になってとくに著しいよう
である。禅僧が滑稽な物語の主役として描かれている。

 日本人は、外国から移入したものであれば、仏でも七福神でも区別なしに嘲笑する。
が、しかし祖先の神を決して嘲笑的には扱わない。これは、のちに指摘するように、日本
人の間における宗教的自覚の欠如と、人倫重視的・系譜偏重的思惟傾向がからみ合っ
ているのであると考えられる。

 さて、日本人は、以上に指摘したような諸特徴をもっていて、このような精神的雰囲気
のうちに生活しているために、西洋人の眼には、シナ人などよりもはるかに浅薄な印象
を与える。そうして日本人自身は世界の文化を総合したつもりでいるが、実は単なる便
宜主義的な無反省な折衷混合状態に堕しているおそれが少なくない。植民地の場末の
町に、他の文化の借りものや模造品が積み重なってつぶれているといった感を呈するこ
となくば、幸いである。


(日本人の思惟方法)







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