< 伝承 仏教神話 VX >

〜 日本人と仏教 U 〜


 日本人が一般に礼儀を重んじる傾向があるということは、またシナ思想の受容のしか
たを想定している。日本人は、多くのシナ粗相形態のうちで、とくに儒教を選びとった。儒
教が礼を中心観念としていることは、いうまでもない。

 礼を重んずる日本人は、シナ人以上にシナの伝統的な礼を保存していることがある。
その顕著な一例は「お辞儀」である。シナでも昔は頭を下げることを行った。「叩頭」とい
う語があり、cowtowという音写は英語として用いられるようにさえなった。ところが現代
のシナ人は中共治下の本土においても、国民政府治下の台湾においても一般には行わ
なくなった。しかし日本人はなおこの伝統を保持している。

 さて礼節を重んじる日本人一般の思惟傾向は、仏教の受容形態をも規定している。禅
宗のうちでも、とくに日本的傾向の顕著な宗派を確立した道元は、行為の問題に関して
は厳粛主義の態度を持し、教団の生活においては、洗面・食事・排便のような一見些細
なことがらに関しても、微細な点まで規定している。

 道元は、『仏家の兄弟乃ち自己よりも親しむべし』と教えている。このような説きかた
を、インド人の次のような表現方法と比較してみるならば、何人もその相違の著しいこと
に驚くであろう。原始仏教では、『子も救いえない。父も親戚も救いえない。死に捉えられ
た者を救うことは、親族もなしえないのである』『自己は自己の主である』といい、自己に
たよるべしと教える。原始ジャイナ教では『友よ!汝は汝の友である。どうして汝は(汝
の)外に友を求めるのか?』という。
 個人の自覚あるいは個人の立場を強調しないということは、総じて封建社会ではどこ
の国にでも認められる現象である。しかし日本人の場合には、他の国も場合とは異なっ
て著しく親和感が支配しているということができるであろう。

 日本の風土においては、もともと局地的な小農的な集団生活をなして社会が発展して
いった。日本人はおそらく早くから移動生活を離れ、定住生活にはいっていた。すなわち
水田を耕し、稲を作り、米を常食とする生活は、どうしても人々を一定の村落に定住させ
る。その社会では同一の「家」が長年月にわたって連綿と存続していて、社会構成員相
互の間では、かなり古い祖先からの系譜と親戚関係とが知れわたっていて、その結合様
式は家族を思わせるものがある。そこでは人々は緊密に結合して閉鎖的な人倫共同体
を形成した。そこにおいては人々相互の間に直観的な理解が成立し、自己の主張や意
向を強硬に貫こうとすると、相手の感情を傷つけ、自分も損をする。そこで日本人は恰も
家族のような生活環境のゆえに、感情的・情緒的な一つの雰囲気の中でとけあうという
理解と表現の形成を成立せしめた。そうして個人としての自覚は十分にあらわれず、個
人の力に対する自信が極めて弱かった。このような思惟傾向は、東洋人一般に通じて認
められることであるが、日本人においてとくに顕著なようである。一般的にいえば、日本
人は一地域における生活の基盤を中心にしてそこに小さく固まった閉鎖的な集団を構成
していった。ここに氏神あるいは土地の神の信仰が成立したのである。今日でも農村に
おいては、なお氏神あるいは土地の神を中心とした社会組織が小さく固まろうとする傾
向が強い。この傾向が古来根深く存続しているために、人間関係を重視し、さらに以下
に遂次指摘するように、個人よりもむしろ有限にして特殊なる人倫的組織の意義を過当
に重視することとなるのであると考えられる。

 ヨシ・アシ、善悪の意義は、利害にかかわるのではなくて、他者との関係、全体性との
関係にかかわるものとして考えられていた。そののちにも、日本では、主君のため、ある
いは家族(とくに親)のため、ないし部落のために献身的な自己犠牲を行なうことが最高
の徳とされていた。明治以後には国家のためあるいは天皇のために身命を賭すること
がとくに最上の美徳として称揚されてきたが、このような思惟形態は旧封建時代におけ
る上述の美徳の延長拡大にすぎず、その本質においては何ら異なっていない。

 日本でも奈良時代には、インド以来の伝統的・保守的な戒律(小乗戒)が出家修行者
の間で厳守されていたが、伝教大師最澄はそれを捨てて大乗戒のみを奉ずることとし
た。これはインド、シナにも例の少ない、仏教史上未曽有の事件である。かれの唱導し
た戒律は「円頓戒」と称し、円頓すなわち完全にして自在なる修行者のたもつ戒律という
意味であるが、それは戒律を持つことと犯すことについて煩瑣な定則を立てないものな
のである。これによって仏教の実践的側面が日本の社会に適応しうるものとなった。そ
の後日本の仏教はしだいに戒律無視の方向に進んだ。この傾向は浄土教においてとく
に著しかった。親鸞に始まる浄土真宗においては、破壊者といえどもすべて無量寿仏の
大慈悲に救われるものと解している。ここにおいては、仏教そのものが実践的にはまっ
たく変質したといってよい。実践の基盤としての日本社会が、インドやシナにおけるがま
まの宗教的実践を許容しなかったのである。けだし日本社会においては、閉鎖的な集団
生活が形成されていて、宗教者に対しても俗世界の社会的拘束力がきわめて強くて、宗
教者だけで独自の修行を行うことが困難であったことも、一つの理由として考えねばなら
ぬであろう。

 日本の仏教が戒律を無視しているということは、決して無道徳あるいは不道徳を意味
しているものではない。日本の仏教徒は、出家者でも信者でも、ともに、有限にして特殊
なる人倫共同体に対してはきわめて忠実であり、国家至上主義に対してさえも忠実であ
った。この点はインドやシナの出家修行者とは大いに異なっていた。ことに日本の僧侶
は自分らの所属する教団の利害のためには献身的に忠実であった。同一宗祖をいただ
き同一教義を信奉する人々が、しかも分かれて、いくつかの教団を別々に構成している
場合に、一つの教団に所属する人々は、その教団を擁護する熱心のあまり、他の教団
を排斥して怪しまぬ。かれらにとっては分裂した小さな単位としての教団の利害が主要
関心事であり、思想は第二義的に考えられる。だからかれらは自己の所属する特殊な
人倫的組織に対してはきわめて忠実かつ献身的であり、その限りにおいてはきわめて
道徳的である。そうして個人が個人として絶対者に対して守るべき戒律、あるいは個人
が個人の資格における他の個人に対して守るべき戒律が、ややもすると無視されてしま
うのである。閉鎖的な特殊な人倫的組織の利害ということが、かれらの行動を決定せし
める主要な基準となっている。このような立場に立つ以上、戒律が破られているというこ
とは、すこしも不思議ではない。

 日本人の間に顕著な尚古性も、また有限な人倫組織を重視する傾向が、歴史的・時間
的視野に投影されたものと解することができるであろう。家にしても、団体にしても系譜
の古いものを尊ぶ。国家の問題についても、日本の国家が歴史的に存続した期間が長
いということが、一つの誇りであった。このような思惟傾向を一般的概念として把捉する
と、われわれはこれを「尚古性」と呼ぶことができるであろう。

 日本の仏教徒の尚古性は、インドやシナの仏教徒のそれとは違った性格を示している
場合がある。その顕著な例として禅僧東嶺は日本の古代を理想化して次のようにいう。
『上古淳厚の世には、人心正直にして、その根器に任せて、大道を得易く、神人すでに
混沌の始を守る。何ぞ仏法の息をもちひん。漸く末代に至って、その本心を失す。外に
向かって馳求して迷うて境を逐うが故に、生死に流転し、悪道に沈吟す。その時に当っ
ては、如来の微妙の教法にあらずば、何ぞ能く生死を脱することを得ん』
 仏教者の立場から見るならば、仏教渡来以前の日本はおそろしい暗黒時代であった
はずである。しかるに仏教者自身がこのような立言をあえてしているのである。ここでは
自己の奉ずる宗教に対する尚古性よりも、自己の属する民族に対する尚古性のほうが
強くはたらいているのである。こういう思惟傾向は、のちに指摘するような国家至上主義
的傾向と結びつくことが可能である。

 また日本の最古代の宗教においては、もろもろの神々の間に血縁関係があると考えら
れ、神々は血縁的に統一せられていた。神々はそれを統一する神(皇祖神)との血縁関
係によって権威づけられていた。祭事の統一が皇祖神を中心として血縁関係によって把
捉されていたことは、団体的な統一が血縁的統一として自覚せられていたことを反映し
たものであると解することができる。ところでこのような血縁の自覚においては、事実とし
て血縁関係があるか否かは、本質的な問題ではない。当時の社会においては、事実上
の祖先を神として祀ったのではなくて、祀られる神を当時の人々の共通の祖先として信
じていたのである。

 『西洋の社会の単位は個人であるから、個人が相集まって国家を組織して居る。我国
では国家は家の集合である。そこに根本的な差別がある』(芳賀矢一)

 成り上がりの大名たちは系図を偽作して、箔をつけた。狂言の中には系図の争いが出
ている。

 仏教の実践理想である慈悲は人間のみならず虫けらにまで及ぶものであり、一切の生
きとし生けるものに対し平等であるべきであるとされている。ところが仏教を組織的に摂
取した聖徳太子は、慈悲を説く場合には、おおむね父子の間の慈悲として誓説してい
る。『父子の間には虚妄を用いず』といい、『父子の間なればこそ累却救済の業をなし能
ふ』という。如来の慈悲を、一般的な理想的人格の美徳としては把捉しないで、もっとも
具体的・直接的な人倫的組織としての家における父の慈悲としてその意義を認めたので
ある。

 シナの仏教がシナの古来の孝の道徳と妥協し融合することによってのみ、一般民衆の
間に浸透しえたものであることは、すでに指摘したとおりであるが、日本においても事情
はほぼ同様であった。シナ人は孝を説く経典を偽作したが、日本人はこのような経典を
注解講説して、日本人一般の間にひろく行きわたらせた。『父母恩重経』のごときは、そ
の典型である。
 ところでここに問題が起こる。日本独自の家族倫理の立場にもとづくならば、家族や国
家を超えた立場に立つところの仏教は、当然それと矛盾することが起こるはずである。
日本の儒学者や国学者はまさにこの点をついて仏教を攻撃していたのであった。この難
点はすでに古くから気づかれていたのであるが、これに対して仏教徒は、ときには世俗
的な家族倫理にそむくことが、かえって真の孝であると主張している。

 親に対する尊敬の念は、往昔の日本においては家の道徳に通ずるものであった。そう
して家の尊重の念はまた外来宗教にも影響を及ぼしている。日本の出家修行者はやや
もすれば教団を一つの「家」とみなして考える傾向があり、この点ではシナの仏教の場合
と同様であった。

 仏教は祖先崇拝の習俗と結びつくことによって民衆一般の宗教としてひろまることがで
きた。まず推古天皇の二年に臣・連らがおのおの君・親のために仏舎を作ったということ
が記されている。ここでいう「仏舎」とは寺を意味しているかもしれないが、天武天皇十四
年三月の詔のうちには正しく『諸国に家ごとに仏舎を作りて、仏像及び経を置き礼拝供
養せよ』とある。日本全般にわたって家ごとに仏壇を作るに至った起源はここに存する
のである。この詔勅は現実に実行せられ、近世初期のキリシタン禁制ののちには、一般
的な宗教的習俗として成立した。東洋の他の国々の家庭にも仏間が設けられ仏像が安
置されていることがあるが、そこの仏壇は日本の場合のように祖先崇拝と結びついたも
のではない。シナではむしろ祖先崇拝は道教と結びついているといわれる。ところが日
本の仏壇のなかには、祖先の位牌がおかれている。また仏壇のある家にも、たいてい神
棚がつくってある。われわれは仏壇の中の位牌を通して近い先祖と結びつき、さらに神
棚を通じていっそう遠い祖先と結びつくのである。ただし神棚においては祖先という意識
が割合に稀薄であり、神社神道は一般的には祖先崇拝を行なわない。だからこのような
現象は単なる神仏混淆の結果とのみは断定できない。
 ともかく仏教は日本にはいってくると、やがていつのまにか氏族的な人間結合と結びつ
くに至った。貴族は氏寺というものをもっていた。たとえば興福寺はもと藤原氏の氏寺で
あった。その家の者が出家してその氏寺を相続するのである。氏寺のような寺院は古代
のインドにおいてもあらわれたらしい。ともかく氏族的な社会構成の打破をめざして興起
した仏教が、日本においてはいつのまにか氏族的なものと結びついたことは興味深い現
象である。

 浄土真宗が日本最大の宗教団体として成立するためには、一般民衆の間における祖
先崇拝の習俗と妥協・融合せねばならなかった。そうして今日浄土真宗の信仰をもはや
失った人々でも、なお祖先崇拝の面において寺院と結びついている。
 盂蘭盆会は推古朝に始まるが、斉明天皇三年に設けられた記事もあり、五年には京
の諸寺で『盂蘭盆経』を講じて、七世の父母に報いしめられた。それ以後盛んに行われ
るようになり、そして今日のいわゆる「お盆」の習俗ができ上がったのである。
 また年忌の習俗は、仏教本来のものではなかった。インドのバラモン教においては、祖
先崇拝を教えているけれども、新月満月の日に祖先祭を行うのであって、特定の祖先に
対する年忌のようなことは行わなかった。仏教もときには祖先崇拝をすすめてはいる
が、年忌のような習俗は設けなかった。年忌の習俗はシナで成立したのである。

 ともかく葬儀と追善供養とが今日の日本における仏教的行事の主要なものとなってい
るのである。今日の仏教的行事のうちからこの両者を取り去ったならば、いったいどれ
だけが残るであろうか。

日本の神話は著しく貴族主義的な色彩をもっている。古事記や日本書紀にあらわれる
神々や英雄は、多くは民衆の支配者であり、かれらの間には階位的な秩序が成立して
いる。

 日本の古事記・日本書紀などの神話は、天皇・皇族・貴族を中心の筋として形成され、
それらの家系を尊厳づけ権威づける傾向が顕著である。それは社会集団的生活のある
がままの反映としておのずからそうなったのであろう。
 さてこのような特徴が、またその後の外国思想の受容形態を規定しているのである。
まず儒教は、上下の身分的区別にもとづく社会秩序を説くものであるから、この点で日
本では、シナ思想のうちで、とくに儒教が重視されたのは当然である。シナ思想のうちで
も、個人主義的あるいは民主主義的傾向のある諸思想を、過去の日本人は拒否したの
である。もちろんそれを拒否したのは過去の支配階級なのであるが、被支配階級はこの
ような大陸の思想を受けいれるほどに進んでもいなかったのであろう。

 もともと仏教は四姓の平等を説き階級間の身分的区別を否認するのが、原始仏教以
来の根本的立場であるにもかかわらず、日本の仏教徒はこの点については多く沈黙を
守っていた。かえって仏教思想は、主従関係を重視する態度によって変容されて受け入
れられた。
 日本仏教は、いうまでもなく、推古天皇の時代から非常に盛んとなったのであるが、そ
のとき仏教を人々が遵奉するにいたった目的は、君と親との恩に報いるためであった。
『日本書紀』によると、『皇太子及び大臣に詔して、三宝を興隆さしむ。このときもろもろ
の臣・連ら、各、君と親との恩のために、競ひて仏舎を造る、即ちこれを寺と謂ふ』とあ
る。本来仏教的ではない「忠・孝」の思想が、日本では仏教そのものを意義づけることと
なったのである。

 仏教はもともと四姓平等を説くのであるから、封建諸候あるいは「君」を重んじるという
思想は、原始仏教においてはほとんど説かれていない。むしろ多くの仏典においては、
国王を盗賊と併称している。力をもって人民を苦しめる点では、両者は異ならない、と考
えていたのである。ところが仏教が東洋世界における普遍的教説として受容されるにあ
たって、それを四姓平等を説く教説として受容することは、当時の日本国家の階位的身
分秩序破壊せしめる危険性がある。そこで日本国家における階位的身分秩序の構成に
順応するようなしかたで受容されねばならなかった。聖徳太子の下の政府は仏教を奨励
したが、十七条憲法においては、依然として上下の身分的区別を固守している。そうして
聖徳太子は身分倫理の観念を仏教そのもののうちにもちこんでいる。すなわち経典を註
解するにあたって、君を尊敬するという思想を経典のうちに織り込んでいる。『勝鬘経』
の「尊長」という語のもとに嘉祥大師吉蔵は「師、父、兄姉」だけを考えていたのに、聖徳
太子はそれらの最初に「君」を加えている。
 ここで「君」という語によって何が意味されていたか、ということが問題となるが、それは
天皇であることも可能であり、また隷属者に対する主でもありうる。要するに有限なる閉
鎖的な人倫的組織において権力による隷属関係が支配している場合に、その組織の首
長は「君」と呼ばれるか、あるいは「君」になぞらえて考えられるのである。したがって
「君」を尊重する思惟方法は、封建社会における身分倫理ともなりうるし、また国家至上
主義の時代における天皇に対する服従の倫理思想ともなりうるのである。

 インドにおいては、武士が戦に身を捨てることは、宗教的意義のあるものとして称賛さ
れていた。ところが日本の武士はこのような態度をいさぎよしとしない。『この主従の契よ
り外には、何もいらぬことなり。この事はまだなりとて、釈迦・孝氏・天照大神の御出現に
て御勧めにても、ぎすともすることにてなし。地獄にも落ちよ、神罰にもあたれ、此方は
主人に志立つるより外はいらぬなり』というのが、武士たるものの理想態度とされてい
た。主君に対する献身的服従をその本質的契機とする武士道が、多分に仏教に裏づけ
られていることは、周知の事実である。『葉隠聞書』の思想の背後には禅の人生観が予
想され、大石内蔵助も参禅したといわれている。これらの場合にあっては、禅の修養が
家臣の主君に対する献身的態度となって生きてはたらいているのである。

 原始仏教教団においては、万人すべて平等であり、ただ出家後の年数の多少に従っ
て次序がつけられていたにすぎない。また原始仏教教団においては、万事投票によって
決せられ、多数決の原則が採用されていた。ところが日本の仏教教団においては、西洋
文明が移入される以前には、ついぞ多数決などという民主的な方法は夢にも考えられな
かったのである。

 日本においては近世になっても、自由なる個人という観念はついにほとんどあらわれな
かった。これは、日本における市民社会の未発達の事実と密接な関係があるといわれ
ている。封建時代においては、自主的な行政権および司法権の坦持者としての都市なる
ものは日本にはまったくあらわれなかった。日本の都市はシナにおけるような帝王の居
住する王城でもなかったし、また王侯の支配する都城として特別な意義をもっていたの
でもなかった。官僚的な行政組織をももっていなかった。ただ武人の支配下にあって人
口の集中した地域というだけの意味しかもっていなかった。明治維新以後になって日本
の都市は急激に膨張拡大したけれども、そこにはヨーロッパにおけるような市民としての
自覚は十分に成立しなかった。とくに農村から都市に流入した人口が都市に定着するこ
となく、依然として出身農村との血縁的あるいは経済的紐帯を断たず、都市における生
活が困難に直面した場合にはふたたび出身地である農村に復帰することが、都市市民
としての自覚の発達を妨げているといわれている。この点は他の東洋諸国における場合
と事情が類似している。近年は商工業の発達とともに事情は著しく異なってきたが、なお
古来の性格を完全に離脱していない。
 このような事情にもとづいて、日本人の間では閉鎖的な人倫組織としての家・主従関
係・縁故関係・国家に対する道徳は発達しているけれども、一個の個人として守るべき
道徳に関する自覚にとぼしいといわれている。社会的徳義とか公共心とか呼ばれるもの
が十分に発達していないのであると考えられる。
 また都市社会の未発達のゆえに、日本においては封建的な(あるいはそれ以前の時
代に由来する)身分的差別の社会秩序が依然として強固に存続していて、ひとたび市民
の間から平等主義的な文化運動が起こっても、ほどなく封建的な身分秩序によって変容
されてしまうのが常であった。たとえば、元来茶道は近世新興都市の大商人の日常の資
本主義的職業生活に対して、生活規範としての理念的意義をもっていたのであった。そ
れは『平生の高下によらず』(南坊録)、人間社会の階級的秩序を離れて全然個別の主
客関係を建てようとしたのである。ところが時代の経過とともに、封建社会の身分制度や
武士の統治政策に順応妥協するようになった。

 日本人一般は、身分的・階位的秩序を重視する結果として、宗教家の偉大性は、宗教
的真理を闡明し実践することに一身をささげた点に存するのではなくて、むしろ、かれの
出身が良くその素性が尊く門地が高かった点にある、考えようとする。たとえば親鸞は、
今日の歴史的研究によると、必ずしも貴族の出身ではなくて、ただ比叡山の堂僧の一人
にすぎず、氏も素性も不明であったということである。少なくとも親鸞自身の遺文のうちに
は、自分の出身素性を誇っているような形跡は微塵も認められない。ところがかれの門
徒は、かれを貴族の出身にまつりあげてしまった。
 親鸞教も、日本人一般の階位的・身分的差別を重視する思惟傾向に従わなければ、
民衆の間にひろまることができなかったのである。

 このような事情が日蓮の場合にはいっそうはっきりしている。日蓮自身はみずから『海
辺の旋陀羅が子なり』『片海の石中の賤民が子也』『片海の海女が子なり』などと称し
て、氏なき賤民の子であるということをむしろみずから誇っていた。ところが日蓮宗も、日
蓮に対する一般民衆の帰敬をあつめるためには、日蓮が高貴の裔であるという系譜を
偽作せねばならなかった。たとえば日澄の著わした『日蓮大聖人註画讃』(江戸時代初
期)には『蓮師の姓は三国氏、父は遠江国の主貫名の重実がじなん重忠なり。日蓮は第
四の子、聖武天皇のばっそん。父は遠州より安房国長狭の群東条の郷のかたうみ、市
河の村小湊の浦にはなたれてぎょふとなれり。母は清原氏なり』とある。いまや賤民の子
は貴族の子、いな天皇の裔とされた。そうして賤民の子であるにもかかわらず自分が正
法を説くのだと主張した日蓮の真精神・・・それは仏教の本来の伝統的精神であるが・・・
は、ついに失われてしまった。坊間に見られる多くの日蓮伝は、たいていかれを貴族の
子としている。
 日本の代表的な民衆的宗教家は、このようにして、貴族の子だの天皇の裔だとかいう
ことにされてしまったのである。
 ひとつはこれについて次のようにいうかもしれない。・・・そうじて封建性社会において
は血縁的・世襲的な身分的秩序の別を重視するから、宗教もそれに適応した思想形態
を示しているにすぎない、と。しかしながら中世インドの封建社会においては、ヒンズー教
の革新的宗教家であったアールワールたちは最下の賤民の出身のものが多く、もたそ
のことが一般に知られていたが、それでなお世人の尊敬を集めていた。インド人は世俗
的な身分・素姓よりも宗教的権威の重んじるのである。カーストの区別も宗教的信念に
もとづいてのみ成立しているのである。またチベットにおいてはダライ・ラマなどの選出は
表面的には世俗的な出身・門地とは無関係であった。シナでは科挙の試験にパスするこ
とによって立身しえたことは、すでに西川如見の指摘したとおりである。だから、とくに世
俗的な血縁的系譜の階位別を重視するということは、顕著に日本的な思惟方法の特徴
であるといわざるをえない。決して日本にのみ限られているのではないが、日本において
はとくに著しかったということができる。











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