< 伝承 仏教神話 44 >

〜 佛と吾々 〜


 仏教では、吾々というのは衆生、凡夫、異生などという中に入れられる。衆生はサット
ヮの訳語で、時には薩多婆などの音訳もあるが、新訳では有情と訳す。有情を単に情と
も訳すというが、用例がない。有情の情は情識の謂いで、従って情識あるものの意味、
また情は愛の意味で、愛情あるものというのが有情の意味とも解するが、愛情と解する
のは一般的ではない。衆生も有情も現今いう動物一般を示す指す。

 衆生は種々に解されて、一、衆人が共に生ずるの義、二、衆多の法が仮に和合して生
ずるから衆生というとし、三、衆多の生死を経るから衆生というとなすが、サットヮは字義
としては存在というのが原意で、存在するもの、真性、心性、精神、生気、生命、性格、
精力、勇気、智などの広い意味に用いられる語である。和漢では、有情よりも衆生の方
が一般的に用いられる。

 凡夫は初めは一般人を指し、次に修行に入らないから聖者と異なるとして異生とも訳さ
れたのである。聖者と相対すると見られる点から、異生はすべて我見を性となすともせら
れ、生死に迷うて輪廻し不正道に住するものともせられることになるのである。異生は直
訳すぎて生硬であるというべく、これよりも凡夫の方が一般的である。

 かくして、佛と衆生又は凡夫との問題は、全く佛と自分との問題と考えて考究すべきで
ある。自分の問題となすというても、結局は、その自己は任意の一例となって、遂には広
く人一般の問題となるべきものであるから、決して個人主義とか自利主義とかに終わる
のではない。要は、事をすべて客観的な態度で眺めないということである。然らば、これ
全く学問的でないことになるであろうが、それは事柄の性格上止むを得ぬことである。客
観的にのみ扱うたのでは真理は理解せられないことに終らんを恐れるからである。

 吾々と佛との間には無限時数の間隔がある。これは即ち実践修行の有無の差とせら
れるのであるが、吾々としては、此ままでは如何にしても佛たることを得ないのは言うま
でもなく、日常佛と共にあることも不可能であることが判る。佛と吾々とでは絶対に相異
なるのである。若し吾々が佛と共に在るという観念に住するとしても、佛は実際遠い彼方
に在って、吾々はそれを拝し仰ぐのみであって、佛と吾々とでは実質上の交渉が全く存
しない。小乗仏教が佛となることを目的とすることなく、佛を全く吾々と関係のない高い位
置に置き、吾々はかかる佛となる素質を有しないとなすのは此考えに基づくものであろ
う。

 佛の教を奉じて修行する以上は、少なくとも佛は修行の保證となり、目標となるのであ
る。保證となるというのは、修行の方法なり過程なりが佛の説いたものとして絶対の権威
が附せられて居ることであるから、佛に対する絶対の信仰が基であり、目標となるという
のは佛が自ら踏んだ道を説示したものとして、それをすなおに受取る信仰の立場に於い
てである。かく信仰に於いて見るときには、如何に高い佛でも、決して高く、遠くの佛との
みは見られるものではなくして、近く、親しい佛となって、高いながらも吾々と共に住し、
吾々はその佛の懐の中に生き居るの思いにあるものである。吾々の左之右之の云為言
動が其まま佛のそれであるなどというのではなく、佛は全く吾々と異なるのではあるが、
然し佛は吾々と関係なきが如く離れてあるのでなくして、吾々の凡てが佛から来るのであ
り、佛にそうさせて頂くに過ぎぬと考えられるに至るのである。即ち佛は吾々と全く異なり
ながらも、吾々と常に関係して居るのであって、一刻も相離れて居ることはないことにな
る。

 仏教では信仰即ち信は澄浄の義、澄浄を性と為すとし、心をして澄浄ならしめるものを
解釈せられるから、信は心状態と見るべきで、それが他者に向かうとき、すなおにそれ
を受容するのである。受容するをも信仰と称することも認められているが、根本は受容
の基となって居るのを信というと解せられる。無力の感は平静謙虚の状態で、即ち受容
の基たる心状態であるから、仏に向かえば仏を信ずるのである。故に信仰によって、仏
が吾々と共にあり、吾々は仏の中にあることになるのである。
 信の最も深い場合には、信の向かう他者と吾々とは遂に二にして不二となって、異なる
二つとは考えられないことになるものであるが、然し、今の場合は、次に述べる如く、本
来不二であるものの二となって居る所に現われた信であるから、全然の不二同一とはな
らないのである。故に、必ずしもこの信が深いものでないといわれ得るものではない。如
何に深くとも二を一にするまでには至らないであろう。従って吾々は大なる仏の中に、小
なる者として包まれて居るのである。如何にも個性を執持して居るとか、個我を没しない
とかに見える如くであるが、決して個性や個我を留めて居るのではない。信は最初から
無我謙虚であるから、自己なる考を伴うて居るのではない。それにも拘わらず、大の中
の小となして居るのは、然らざれば無力の感すらあり得ないからである。信は他方に於
いて凡てを自己の中に包容して、相対的の大自己となるを得るものであるが、仏に向か
った時に必ずしもそうはならないから、そこに一種矛盾的な点が認められるのである。

 更に仏と吾々との関係を理論的に考えると、我々を其本性、本質から見れば、これ仏
に外ならないといわねばならぬといえる。一切衆生悉有仏性が許されて居て、何人と
雖、仏たる本性を有するものである。仏性は仏という本性又は性質と解せられ、吾々は
仏の可能態であるとせられるが、仏性の字義はもともと仏たること、仏其ものの意味で
ある。実践的に仏と吾々はとの差別を考えるから、悉有仏性は仏たる性を有するとなす
のである。実は仏たる性は仏に外ならぬとなすべきで、従って理論的には、吾々は即ち
仏である。即ち仏と吾々とは決して異なった二つではないといわねばならぬ。仏は元来
は釈尊が大悟成道した時以来の尊称であったものであるから、人が仏となったのであ
り、それが即ち一般に人が仏となる保證模範であったのである。釈迦牟尼仏一代として
みれば、仏は入滅死去することもあったのであるが、然し、仏教思想が進歩発達するに
至って、仏は人間性を離脱し、歴史性を超出して一般化せられ、現象を律する理が即ち
仏に外ならないとせられるに至った。理は絶対であるから、動静、善悪など一切の相対
を全く超絶して以て相対と無関係に超然として居るのではなくして、却って一切の対立差
別を包容して一全体として存するのであって、それに包容される一一の相対の一方、即
ち個々のものは、凡て各々絶対を表し、固体にして其まま全体であり、相対にして直ちに
絶対であるのである。従って吾々は即ち仏であり、仏は直ちに吾々はであって、全く二に
して本来不二である。不二が根本である。吾々のどこが仏かと部分的に考えるべきでな
く、吾々が凡て仏である。吾々は人としての性質上分析的に見、分析的に理解し、相対
的に言詮し相対的に思慮する外には他の何等の仕方をも取るを得ないことになって居る
から、部分的に考えることになるのであるが、然し部分は全体を代表して居る点では、部
分も全体も凡て仏であるというべきである。声咳笑呻皆仏ならざるはない。
 佛という意味は、覚者と訳され、覚に覚察と覚悟の二義を有すとし、又自覚、覚他、覚
行窮満の三義を有すとなし、この覚を有する者を指していうと解せられて居る。覚察は悪
の根源を察知することで、従って、もはや小悪もなくして却って反対に凡ての善をなすこ
と、術語では煩悩障を断じて居ること、覚悟は真実の理を悟り、その理を体現し、理と一
致冥合したこと、術語では所知障を断じて居ること、故に自在全知を有する者で人格とし
て考えられて居るが、自覚は自ら覚悟したことで、前の覚悟に当たり、覚他は他を導い
て自らと同じ覚悟に至らしめることであり、従って自覚は智慧、覚他は慈悲、覚行窮満は
かかる覚の実行が完全して欠けることのないこと、故にかかる覚を有する者が佛である
となすのであって、これも人格として考えられて居るから、結局、絶対完全な人格という
に帰着するであろう。然し、仏は必ずしも常に人格的にのみ考えられているのではない。
真実の理即ち真理と一致冥合した点を取れば非人格的で、実際としては佛は理そのも
のといえる。

 心を通常事心即ち縁慮心と、理心即ち堅実心とに分つが、勿論二つの心の存すること
を考えて居るのではなくして、同じ心の見方の相違に過ぎないから、理心といわれる所
が即ち理たる外ならぬのであって、理は必ずしも外界又は吾々以外に存するとなすので
はない。然らば佛は吾々の心に外ならない。一切は唯心のみであり、心外無別法であ
る。

 実践的にいへば、佛は吾々とは全く異なる別の存在であるが、理論的にいへば、佛は
即ち吾々であって何等異なる所はない。全く別であるといふも、その両者の間には何か
基礎根柢に於いて相通ずる所がなければならない。全然無関係な別のものの間には、
それ等が別であるといふ観念すら起こるものではない。故に別異であるといへば、そこ
に何等かそれを包容する大範囲のものがあって、両者を含んで居るのでなければなら
ぬ。即ち吾々と佛との間には、一方に於いては全く相異なるものであると同時に、他方
には両者が同一根柢の上にあることが予想せられて居ると見なければならぬ。

 実践的に見るといふのは、凡夫の立場からいふことであって、凡夫は修行に入るべき
ものと見るから、佛果に対する因位であり、従って果を眺める方面で、従因向果即ち始
覚門の説である。
 理論的に見るといふのは、凡夫の本性、即ち佛たる所からいふのであるから、これ即
ち佛の立場に於いて論ずるのであって、佛果から因位を見るもので、これ従果向因、本
覚門の説である。
 始覚門は凡夫一般の見方を指すからこれ俗諦の立場、本覚門は佛位からの説である
から、これ真諦の立場である。
 かく区別して見ると、不一不異、不二而二は二つの立場を区別せずに同一時に言詮は
しているのであって、矛盾するが如くにして而も決して矛盾の表現ではないといはねばな
らぬものである。つまり、両方面が同時に示されて居るに過ぎないのであるが、もともと
吾々が既に此の如きものであるのが基たるのである。

 佛と吾々とは全く相異なるもので、その間には一点の共通性も、極小の相似点もない
ことを明らかにして、之を矛盾となし、この全然矛盾の佛と吾々との間に而も却って反撥
的に不可分離の関係が認められるといふ如くに解するならば、それは佛教としての理解
ではないと考えられる。修行の方面に於いては佛と吾々とは全く相異なると見なければ
ならぬのであって、ここでは一点の同も許されないのは実践修行に重点を置くからであ
る。然らざれば有と無とが同一となって、宗教的謙虚は失われる。のみならず、吾々の
向上精神が消失して、醉生夢死に終らざるを得ないことになる。
 佛と吾々との間に全く何等の共通点も相似性も認められぬとすれば、そこには全然越
えるを得ない鴻溝が存して、佛は目的とはならないし、佛が吾々の生活を向上せしめる
点を有しないことになる。而も反撥的の関係と見ては永久に相背くのみであって、不可分
離又は不可結合以上には進むことを得ないことに終らざるを得ない。元来全く相異なる
といひ、矛盾するといふのが、既に全然無関係で何等のつながりもないものの間では、
全くいふことを得ないのであって、相異なるといふ所に已に少なくとも異なるといふつな
がりが現わされて居るし、矛盾というのも相対するから矛盾といえるのであって、相対せ
しめることがなくば、矛盾という考えも起こるを得ないものである。相対せしめるのは、そ
こに相対せしめ得る何ものかを認めて居るが為であって、然らざれば、反撥もあり得な
い。そして又反撥では、吾々は佛とはなるを得ないから、佛を彼方に見つつ抗争的とな
り、他山の石として自らを磨き、自らを向上して自己完成に進むことになるから、自己を
固持することを離れることがないに相違ない。自己の固執は佛教とは相反するから、佛
教としていへば、佛と吾々との間に反撥的の関係などはあるを得ない。佛を彼方に見て
自ら進むのは実践的始覚門で、自我に外ならないが、此間は佛と吾々とは近くして遠い
と見られる。然しそこには佛からの導きがあり、自我といひながらも自己は漸次解消し行
くのであるし、それに従って佛との隔たりは順次に近づいて来るのである。それが実践
門のあり方であって、そこに人生の真意義が認められるのである。


 吾々の世界は佛の世界と同じでありながら異であって決して同じではない。吾々は任
運無作の世界に遊ぶことを得ないものであるが、然しかかる佛のと異なる世界に在るこ
とが吾々としては真に有意義であることを反省すべきである。吾々の世界は全く努力の
世界であって、努力の外には何ごとも存しない世界である。日々の努力は諸種の方面に
向けられて居るから、その方面々々に於いて目的が立てられ、その目的に向かって努
力が傾注せられて、先づその一目的は達せられ、更に又他の目的が立てられて努力す
るから、この点でいえば、努力には実際上目的が存するのである。決して何の目的もな
く濫りに動いて居るが如き努力ではない。目的のない努力の如きは努力と称せられるべ
きものではない。真の努力は目的感性の為の努力であるのであるから、吾々の人生全
体としてもまたその目的の完成の為め努力をなしつつあり、個々の努力も凡て目指す所
は人生生存の目的に対して努力しつつあるのであって、この場合にはその目的は実際
上果して達せられ得るかどうかは判らないものである。実は人生最後の目的は達成せら
れるものでないといふのが真である。如何なる生活様式をなしつつも、それぞれの職業
に於いて努力しつつあるのは、その人の刻下現時の生活の向上の為であって、それを
意識するとせざるとに拘らず、向上のための努力に外ならないものであるから、従って
刻下現時の状態に満足せずして、それを脱して一層よりよき状態を得んとしつつあるに
外ならないのである。これ即ち人生の生存の目的に向かって敢然努力し進みつつあるこ
とであって、その間にそれぞれの目的を達しつつ、而もそれぞれ新たな目的を立てて
は、それに努力を集注するのであるから、最後の目的が達成せられて飽満休歇の域に
入ることはあり得ないのである。


 人は凡て両方面を有するものである。個々人であると同時に社会人であり、有限に立
ちながら無限を望むものであり、相対と絶対とを含んで居るものである。故に、吾々には
個人であるという自性もなく、社会人であるという自性もない。凡ての関係が個人的にな
らねばならぬ如くに現われた場合には個人として生活し、凡ての関係が社会的となる如
くに現われは場合には社会人であり、同時に又個人であり社会人でもある。即ち吾々の
生活が全く此の如くになって居るのである。従ってその何れに重きを置くかによって自己
の持し方が異なって来ねばならぬ。自己をその生活の全体で考察するに、吾々の生活
は衣食住に於いてであるから、その一一について由って来る所を見れば各業者の努力
であり、その努力の賜りによって吾々は漸く生活して居るに過ぎないことが反省せしめら
れる。その業者を更に直接間接に、広く関係を辿れば、凡ての業者が関係し、重々に交
錯しつつ、遂には天地自然の運行、気候までが各その力を寄与して居るのみならず、障
礙の力を発揮しなかったことまでが関係して居ることが判るのである。かかる宇宙一切
の関係が力となって、吾々の衣食住の生活が成立して居るのであって、吾々の自己の
力などは全く比較にもならない程の微弱なもので、之を直ちに零と見做す方が適切であ
ると考えられるであろう。

 然らば、吾々は宇宙間の一切の力によって生活せしめられて居るのであって、その間
に自己の固執、自我の主張など全く容れられる余地はない。これを宇宙一切の力とまで
見ずとも、社会の力と見るも適切であろうから、吾々は周囲の社会によって育まれて居
るのであって、何等独立体などといはれ得るものではない。ここが即ち無我である。この
点を反省するとき、吾々は社会宇宙一切の恩を感ぜざるを得ないであろう。佛教はこれ
を四恩に纏める。四恩は、異説もあるが、一般には父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三
宝の恩で、父母に恩はいふを要しない程で、国王の恩も明かであるが、この中には国王
の恩をも考ふべく、衆生の恩は同胞・社会の恩であり、三宝は仏法僧の三宝で、つまり
宇宙真理の恩に外ならぬ。かく恩を感ずれば、恩は恩を施す者の慈悲に外ならぬから、
宇宙は凡ての慈悲の現れで、慈悲を強く感ずれば、そこに人格佛を拜立することになる
のも当然である。即ち宇宙はそのまま佛であって、吾々はその佛の懐の中に抱かれて
安楽な生活をなして居るのであり、この佛の加護によって吾々の努力は正しきに向か
い、努力を続け、而もその努力をその佛に捧げることになり、そこに何等の報酬も結果
も求めず、純粋犠牲の精神を以て社会奉仕に打ち込むに至るのである。

 吾々が自己を持し、自己を制することによって宇宙の関係一切を左右することを得る
のである。吾々の外に佛など存するのでなく、吾々がそのまま佛たるのである。自己を
恃持することの重大なるべきはいはずして明かであると同時に、自ら努力するでなくば
一切は死滅する点に留意して、努力に努力を重ねなければならぬことが知られる。

 小なる自己という現実を捨て空ずる所に、初めて大自己に躍進する契機が存するので
ある。同時に又大自己から極小の自己に還る所にも空観の媒介が働いて居る。

 極小は同時に極大を含み、極大は又極小を含んで、何れの場合にも余す所がない。
故に、両者が吾々の中に相並んで存するのである。吾々のこの相反性が実は吾々をし
て一方に於いては佛たらしめて居るのであり、同時に他方に於いては佛と遠ざからしめ
て居るのである。

 自は個人として縁起相依の関係上の一中心であって、自らを保持しつつ、他の一切を
その中に総括包容して、努力的に生々発展して居るものである。自以外の他の一人一
人も凡て皆此の如くであって、これ等の一人一人は、いはば、無限の長さの一線を、共
通に底辺として、二辺を以て成立する各個の三角形の頂点として立って居る如きもので
ある。頂点は各々相異なりつつ、他部が相互に相包容し、決して全く相異なるものでない
状態になって居る。故に、個人は相互に不一であって同時に不異である。かくして吾々
個人は各自が一にして同時にそのまま全体であり、全体であってまた同時にそのまま一
であって、全く完全して居るのである。故に、この外に別に佛が存するとは考えるを得な
いであろう。吾々がそのまま佛であるといひ得られよう。

 佛は釈尊の尊称であったのが原始的の意味であって、釈尊の大悟成道の徳号である
が、釈尊の大悟成道は自覚が直接的である。自覚は佛教一般としては根本無分別智を
得たことに当たるといえるが、釈尊の場合には特に阿耨多羅三藐三菩提即ち無上正遍
智又は無上正等覚といひ、絶対完全智を指す。

 佛といふのは智慧と慈悲とがその本質をなして居るのである。智慧と慈悲というても、
これは決して二の別のものではない。智には凡て自受用智と他受用智との両方面を含
んで居るもので、智そのものとしては、自らそれを受け用いる自受用智の方面のみでも
差支ないが、智は性質上対他的であるから、対せられる他が、その自受用智といはれる
智を受用するために、他受用智となるのである。その他受用智は即ち慈悲に外ならぬ
し、佛はその為に自受用智を得たのであると見るから本願ともいはれるのである。

 釈尊の伝記として伝説せられる所では、釈尊は大悟成道して後一週間は自受法楽の
境地に遊び自覚の法の深遠幽玄な為に、これを説いても何人も理解するを得ないことを
考えて、一度説法強化を躊躇し中止する決心をなしたといはれる。この間の釈尊には自
覚があり、覚他が動きかけたが、覚行窮満にはなるに至らなかったから、これ辟支佛即
ち独覚に過ぎなかった道理である。独覚をしばしば字義通り独自に覚悟したものの意味
に解釈するが、それは全く誤りで、むしろ独善的の佛の意味たるものである。

 覚他の佛は正確には正覚佛と称せられるのであるが、一般には、単に佛とのみいうて
居る。故に梵天勸請があって、覚他が実際上動いて来たのであるが、然し、自受用智、
他受用智は時間的の間隔を以て働くとのみ定まって居るのではないから、覚他は根本
無分別智の後に得られるといふ程に、後に働くものたるのみとはいへない。覚他は必ず
自覚を予想するから、かく言詮はして居るに過ぎない。梵天の歡請はつまり佛の慈悲を
仰ぐことに外ならないから、この慈悲の佛が吾々に最も親しいのである。佛の四十五年
の説法強化は全くこの慈悲の発動である。

 佛は八十歳に至って入滅死去して全く無に帰した。通常の考えでは、佛は失われて、
唯その説いた教えが弟子信者の耳朶に存し脳裡に把捉せられて居るのみのこと、又せ
いぜい僧伽に於いて実践発揚せられて居るに過ぎない。その外には何ものも遺って居な
い。これに於いてか、遺弟は先ず佛の教えを何等かの形に於いて蒐集し、同時に僧伽
を正しく維持することに努めねば、所謂佛教なるものを持続せしめるを得ない。従って教
法の蒐集と僧伽の維持とが佛滅後の重大事であったのであるが、然し遺弟をしてこれに
全力を注ぎ、佛教持続するに至らしめたのは、一にこれ佛の生前に於ける偉大なる人
格感化であった。

 追想に浮かぶ佛は漸次に理想化せられることは人情自然の経過で、吾々の日常の経
験にも表れて居ることである。生前の感化が偉大であればある程それに比例して理想化
は益々進むものである。佛は既に生前に於いて、自らの大悟自覚の完全なことに絶大
の自信を有し、人類救済の強化にのみ終始して居たが、弟子から見れば、佛の大悟と
自信とは佛という人間の中に人間を超越せるもののあることを認めしめる基となって居
るし、その教化は絶対の無縁の慈悲であるから、この超人性と無縁の慈悲とは佛という
人間とは別に現存せねばならぬと信ぜられたのであって、これが具体的に理想化せら
れた超人は、勿論凡人と同じである道理はないから、遂に三十二相を具備せる精神界
の転輪聖王として、印度人が古来その出現を期望して居たのに答えたものとせられ、佛
の生誕時に、已に在家ならば、政治上の転輪聖王となるべく、また出家せば佛如来とし
ての人類救済の転輪聖王となると、相者によって予言せられ、またその入滅後の葬儀は
一に転輪聖王の葬儀に據ったとせられて居る。従ってこれ全く超人であったのである
が、この超人たることは決して単なる信仰のみのものでなくして、佛教教理としての善悪
応報の因果の理の上にその根拠を有して居るのである。超人は報いであるから、それ
には、それに相当する偉大なる因としての積功累徳があり、已に前代七回も転輪聖王と
して出現して、あらゆる善政を布き、その他無数の善業を実行したから、その因に報わ
れて超人性を得たのであり、従って超人たることは確固不動のものとなって居る。この超
人性は実際として智慧と慈悲、即ち纏めていへば人類救済の本願で、もと佛といふ人間
の中にある人間以上のものであり、佛の大悟自覚を源となすものである。
 然しかかる超人が八十歳で入滅したことは何としても超人性にふさわしくない平凡事で
あるから、これには何等かの特殊の意義がなければならぬ。佛は人類救済の本願に外
ならぬから、その点から見れば佛の入滅はその事業の完了した為でなければならぬ。
完了せずしての入滅では、佛たることに欠けた点のあるを免れることが出来ない。絶対
完全な佛に欠けた点のあるべき道理はない。故に、佛の入滅は一にこれ教化の事業の
完了の為で、もはや住世を要としなかったのである。即ち済度すべき者は凡てこれを済
度し終り、未だ済度しなかった者には済度の教説と手段とを遺して置いたから凡て洩れ
なく済度せられ得る。従って、これ以上住世すれば、却って人々は何時にても佛の直接
の親化を得ると考えて、発心入道に懈怠心を起さしめるから、佛の入滅何ぞそれ速かな
るやと悲戀心を抱かしめて疾くに入道せしめる為にも、自ら任意に捨命入滅したに外な
らぬという深意があるとなした。
 蓋し、因果の理によれば、凡ては業生で、任意の捨命は全然不可能であり、また自殺
は罪悪である。佛のみが任意に捨命したとすれば、佛は業生ではなく、従って因果の理
以上であり、人間たるものでなく、また歴史性を超越して居るのである。また入滅が任意
ならば、その生誕も同じく任意でなければならないし、一生も凡て任意でなければならな
い。入滅のみが任意で生誕が任意でないといういう如き矛盾は到底考えられることでは
ない。任意は自由意思での意味であるが、然しこれは決して理由のない勝手な自由意
思でない。佛は人類救済の本願そのものに外ならないから、任意の意はつまり本願を指
すのである。故に佛は本願によって生誕し、本願によって一生行動し、本願によって入
滅したのである。然らば、業生でなくして願生である。業力所生でなくして願力所生であ
り、願は力である。この願は、具体的には、前に述べた宇宙一切の力が吾々を生活せし
めるといふ力であるが、佛でいへば、その超人性が即ちこの願であり力であって、超人
性が佛の本地本質である。この佛の願が動いて、人類救済の為に、人間の形を取って
垂迹して印度の釈尊として現われたのである。釈尊は垂迹身で超人の願の具体的に人
間化した所である。勿論超人の願即ち慈悲に制限のある所以は絶対にないから慈悲が
動物の方面に動けば、動物に垂迹身が現われるのであるが、今は人間に現われたので
あるから、人間に応同応現したという点で、釈尊は応身佛または応身である。或はまた
超人の神通変化によって現われたのであるから、その点では変化身即ち化身とも呼ぶ。
然し区別していえば、応身は人間、化身は動物などに現われを指すのが一般的である。
広くいえば応身の中に化身を含ましめることもあり、また化身の中に応身を含ましめるこ
ともあるが、応身と化身とを並べていう時には、人間身と異類身とで区別する。これに対
して超人たる本地佛は、古くは法身ろ呼び、後には報身と呼ぶ。法身という語の最も古
い意味が何であるかは従来明確にせられて居ないが、法には教法、善業、事物、理法
の少なくとも四種の意味を含んであるから、恐らく、古くは直接には教法を指して法身と
いうたのであろうと思われる。身は、この場合には、決して身体の意味ではなくして、集
まりの意味である。故に佛の数の集まりという意味で、佛が入滅しても、その教法は、遺
弟が実践すれば、そこに存しているから、佛の法身が存続するのである。
 然し、古い大乗経典では佛を二種に見、釈尊という人間として、悟って教える佛となす
のと、その悟りの自覚と覚他との根柢に存する理法を佛と見て、それが今その経を説く
佛となすのとである。前者は応身で、後者を法身となすが、この法身は理智不二または
理智未分を指すに外ならないのである。かかる法身は、教理の発達した後からいえば、
報身であるといえる。報身は固位の絶大の修行に報われて成就した完全智を指して佛と
いう場合の報身の意味が最初で、後には理智不二は未分を二に分つて見て、理を法身
といひ、智はその理から流れ出たと見て、その智を報身と呼ぶ場合が現われた。従っ
て、超人は、釈尊を標準としていえば、因行に報われたとなすから報身と呼ばれることに
なるが、古い大乗経典のいう所に準ずるならば、法身である。

 一般的には、もと人間であったのが、修養によって佛と成ったと考え、必ずしも、最初
から垂迹であると知って居るのではない。垂迹であると知って居ても、また知って居なくと
も、真にこれ直接に吾々を導く佛である垂迹と知れば、吾々がこのまま理であり法身で
あることを知って、そこに頓悟が起るのであるが、頓悟が起っても、吾々の無始の熏習と
環境世界の慣例とは頓悟を常に頓悟たらしめて居るのではない。頓悟にも頓悟漸修も
あり、漸修頓悟もあり、頓悟頓修もあって、一様でないのは、かかる点に基づいていは
れるに至ることである。吾々は本来自己真性の理を信ずるのがその理に参ずる所以で
あることを十分知って居るが、これはしばしば自然主義などに堕するの弊を免れない危
険性を含んで居るものである。著実真摯な信仰としては応身佛の導きに対する信仰が
強いものとなし、日常生活を向上せしめる所以であると考える。応身は已に入滅死去し
たと考えてはならぬ。何時にても、また個人に対しても、常に必ず応現するのもである。
本願には吾々の疑などの容れられ得る所はない。吾々に信心が動けば、佛のそれに応
ずることは月の水に影現すると同一である。破器でも水だにあらば月は宿るが、完全な
器でも水が無くば月は映りようがない。これが即ち感応道交である。




(宇井伯寿)






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