< 伝承 仏教神話 43 >

〜 仏教の頽廃と排仏論 〜


 徳川時代には仏教は上下各層に普及浸潤し、内に於いては各宗共に宗義の講究を盛
んならしめたといえるし、元禄の時期に、一般文芸等凡て旺盛な発達を遂げたのと呼応
し、自由研究も現われて見るべきものがあり、この点殆どインド、シナにも無い所という
べく、一方からいえば、これが幕府の仏教保護に応える所以ともなったのであるが、然
し、同時に幤としては、一般が安逸を貪り、惰眠に耽り、而も秘事法門や蓮華往生など、
極端な事件が起り、亮賢が桂昌院及び綱吉将軍の帰依を得て、音羽に護国寺を創し、
隆光が同じ帰依を得て、護持院を建てたが、遂に綱吉をして、犬公方たらしめ、祈願修
法の競争を起した如きも幣の一つである。然し、外には整然たる統制が行われ、法度に
依って一糸乱れざる状態であったが、これは凡てを固定化する所以であり、発刺たる生
命ある布教の如きは、為に阻害せられるに至ったと考えられる。殊に宗門帳の如きは、
仏教としてあり得べからざる寺檀関係を確立したもので、寺院が檀徒に支配掣肘せられ
る如き風習すら起こらしめた。此の如き余弊は、之を凡て除く抜本塞源の方法を考える
にしても、この幕府の存する限り、全く施され得るものでないから、仏教本然の姿には還
るを得ないのである。かかる間に於いて、儒教、国学者の間に、漸次排仏論が台頭し、
痛切な批判排斥が起るに至ったが、これはまさしく時代の要求産出であって、而も我国
独特の現象というべく、徒らに非議謗言に奔った点もあって、結果から見れば、現代に
至るまで、我国文化人の宗教心を薄弱化した原因の一つとなったともいえる。この排仏
論の欠点は、単に一般人から仏教を奪わんとのみするもので、仏教に代わる安心立命
の糧を与えんとする点の皆無な点である。即ち破壊をのみ快として、建設に心を用いな
いことである。仏教の堕落を排することは、仏教者の中にも存したから、殆ど何人にも考
えられること、従って時代としては最適切なことであったが、破壊にのみ奔ったことは、
何としても改革方針を誤らしめたものといえよう。排仏論は藤原惺窩、谷時中、林羅山、
山崎闇斎などが其始めをなすが、何れも初めは仏教者として寺院に生活した人々であ
る。これ等の人々の論ずる所は仏教の出世間性、僧侶の堕落態を攻撃することが多
い。多年仏教に育っても仏教を理解し得なかった点が多いのであるが、然し、進んで富
永仲基、中井竹山、中井履軒になると、批評的になって来る。富永仲基の出定語後は大
乗非仏説論で、鐵眼の大藏経の刊行によって大藏経に目を曝らして、論述の資料を得
た点が多いといわれ、果して排仏論であるといえるかは明確ではないが、当時の仏教界
には空谷の響音で、影響も多い。竹山は宗教否定論者で、而も僧侶寺院の整理淘汰論
であり、履軒も仏教弊害論である如くである。仏教の弊害を淘汰し整理せんとする点は
正しいことであるが、かかる排仏論が国体論と結合して、そこに本居宣長、平田篤胤の
排仏論となり、平田篤胤の如きは富永仲基を鼓吹し、自ら宗教の何ものたるかを知る所
なく、野卑な言論によって、民衆間に排仏論を鼓吹し、これが最も広い影響を及ぼして、
明治維新の廃仏毀釈は多くは之に基を有するのである。これ等の根本には古い時代の
物部氏の主張が横たわって居ると考えられるから、何時の時代にも同じことが繰返され
ると見える。これ等に対して、仏教者からの反駁も存するが、然し時代の風潮としては、
何の為す所もなかった結果に終わった。何れが幸か不幸かは人為の定め得る所ではな
いであろう。
 排仏論は徳川時代の最初期から存して、漸次喧しくなって居るが、これ等凡てを通じ
て、論者に宗教的体験なるものなく、宗教心なく、宗教に宗教としての価値を認めること
が全く無いのが特色をなして居るのは、極めて遺憾なことである。当時としては、仏教が
即ち宗教で、仏教以外には宗教はなかったのである。儒者は儒教を宗教と見て居るの
でなく、神道家、国学者も神道を以て必ずしも宗教と見て居るのではないから、仏教が宗
教を代表して居るのが、実際上の事実である。然るに、この仏教に何等の宗教的価値を
認めず、仏教無用論即ち宗教無用論、宗教否定論を主張し、信仰なり、安心立命なり
は、一般愚民の慰めに過ぎぬ如くに見るのは、その人等に宗教経験の皆無なるが為で
あり、而もこれが明治以後現代に至るまで爲政者の脳裡にも存する考であるのを見る
と、当時からの遺物である点が認められる如くである。所謂愚民なるものが大多数で、
儒者や神道家や国学者などの賢者は極めて少数である事実に思いを潜めることが、現
代としても、最緊急時である。






〜 仏教趣意の滅失、廃仏毀釈 〜

 明治維新は王政復古といわれ、これを復古となすが、実は久しき間の幕府等の武断
政治の反動と尊王思想との結合による尚古で、その古とは神代巻に現われたものを指
すのが事実である。そして明治元年神仏分離が令せられて、仏教に存した凡ての待遇
は停止となり、神のものは神社に、佛のものは仏教に帰属することになったが、判然区
別の出来ないもののあるのがむしろ当然であるのに、凡て機械的に分たれたから、現今
としても極めて不自由なものがあり、明かにインド起源の一種の神が我国の神として扱
われている如き奇観を呈して居るものも存する。神仏分離がよいかわるいかは別問題と
して、奈良時代以来行われたことを一朝にして廃するのであるから如何に急激であるか
が判る。然し幸いにして一般民衆の間にまで徹底しなかったから人心の動揺は免れて居
た。



 僧侶は教導職となって、全く神官の服を纏い、或は法衣を着けながら、拍手して魚鳥を
神前に捧げるから、佛教は全くその趣意を失って、教義の本色と異なる説をなさざるを
得なくなった。即ちこれ大体神道を一種国教視する考であって、仏教は宗教としては何
等認められる所はなくなったのであるし、仏教は滅失せしめられたのである。更に神仏
分離の令が排仏論と結付き、尚古思想と、また新を迎える思想とが混じて、遂に廃仏毀
釈が起り、甚だしきに至っては、全く無用のものとして堂塔伽藍の破却、仏像、仏具、経
論の焼却が行われたから、反動としては、暴動の現われた所もある。廃仏毀釈は空前
の事件であって、その原因は主として神祗官員中に平田篤胤流の思想を奉じた者の居
たこと、僧侶の堕落無気力の多かったことなどに存するといわれるが、単に廃毀し奪う
のみで、宗教的のものを与える所は皆無であったのみならず、むしろ仏教の破壊を奨励
した風がある。たとえ朝廷の本意は廃仏毀釈にあったのではないにしても、適切な処置
を講ずるを得なかったのは策の得たものではなかった。然るに、仏教徒の中に西欧に往
って、欧州の宗教事情を視察し、彼地に於て至る所宗教が盛んで而も重んぜられて居る
のみならず、国家の存立としても宗教の重要要素となって居るのを知って帰り、之に基
づいて宗教の欠くべからざることを献言したので、遂に八年に神仏合併の大教院などが
廃せられ、仏教各宗は管長に委任せられ、宗制寺法を定め、学林教校を設け、政府
は、以後は、教義信仰に関係せず、監督をなすのみのこととなったが、これが又空前の
ことであり、元来政治に関係のない仏教が自ら政治を行なうことになり、進んでは立法と
行政と刑罰とを実行し、一国家の内に多数の小国家が存するが如き形となり、仏教僧伽
の事情状態は全く本来のものと異なるものになり終って、現今もそのままである。然し、
朝廷としても、従来の処置が余りに急激に失し、人民の信仰に動揺を来すのは策の得
たものでないことに鑑み、十七年には教導職を廃止し、神道復興の努力の水泡に帰した
ことが明かになったから、漸次法制上、経済上に、仏教に対する扱いを和らげ、その健
全な発達活動に便する如くになし、各宗の祖師には殆ど凡て大師号を賜り、門跡寺院、
御由緒寺院には特別の優遇を与え、凡ての処置は以前に比して大に和らげられた。然
し、仏教のことは凡て仏教に任せるというのが政府の方針とせられたから、各宗はそれ
ぞれ自らの方で立って行かねばならぬ必要上遂に一小国の如き体制を建てることにな
ったのである。然し政府や官吏としては神道を一種国教的に見ることは依然として存続
し、神社は宗教に非ずという宣言の下に押通して、昭和二十年亡国に至っても変化はな
かったのである。それと共に、宗教に対する理解は為政者の間には殆ど欠け、重要な教
育の方面に於いて、方針として宗教と教育とが全然分離せられ、従って学校に入る子弟
には宗教教化を受ける機会全くなくなり、かくして学校教育を卒えた者が為政者側に立
つので、依然として宗教の理解もなく、屡々宗教無視に傾き、宗教に対して殆ど為す所
がないに至って居るのである。此の如き状態で果たして健全な国家の存立発達があり得
るや否やの問題すら意識的には考えられて居ないのである。通俗的な例を挙げると、仏
教寺院は多くは葬儀年忌などの法事の場所となって居るが、現今に於いても、之を以
て、之に従事する宗教家を不必要な徒食者である如くに見、以前の排仏家の考と共通
する考を有するが、仮に葬儀年忌などを一時に全く行わなくなった場合を想像すれば、
人々は安心して日常生活を穏やかに暮らすを得ないに相違なく、由々しき社会不安を来
たし、国家問題とすらなるべきものであるから、かかる点を考えずに、直ちに不必要の
如く見做すのは為政者としては無責任であるというべきで、これが今猶常に見られるの
である。宗教は微妙な人心に萌すものであるから、無宗教を以て誇りであるかの如く考
える我国人は明かに教養に欠けた点があるのであるが、遂にかかる結果に至らしめた
のは一には確かに以上の如き政策に基づくのである。
 明治維新は仏教にとっては一大法難であり、又一大転換期をなすものであり、此間に
処して東奔西走し、以て教勢挽囘に努めた人々は、各宗に、それぞれ見出されるのであ
る。



 多くの仏教者各々の一代の心血を注いだ結果、仏教は我国に於いて日本仏教として
発達進歩し、インドにもシナにもない独特のものを出したのである。広く文化一般から見
て、これ日本仏教が人類文化の発展に貢献した所であって、我国人の努力の結晶であ
るから、単なる移植寄在の状態ではなく、全く受容摂取の結果であることは、否定できな
い点である。一見日本仏教は、仏教発達の達すべき点までも凡て達した如き観がある
から、此の点を、簡単に、事と理との関係の解釈考えて見るに、インドの仏教は事理の
相即融通までを明かにし、シナ仏教は理の中に含まれるとしての事と事との相即融通を
説き、日本仏教は事の一一の中に理を見、事のみの相即融通を見るに至ったものとい
えるであろうと考えられる。事は具体的の事実で、理は要請的の原理であるが、具体的
の事実が理によって説明解釈せられ、如何にも理の方に優れた価値が附せられるのが
一般的である。これがインド及びシナの仏教の大綱あり、シナの或る派は如何にも事の
みを重く見る如くになって居るが、それにしても、理に基づくという点から事を見る見方を
脱して居ないと考えられる。これに対して、日本仏教は、真言宗にしても、日本天台殊に
中古天台にしても、また鎌倉時代の新宗教にしても、凡て事に立場を置いて、事の中に
理を見、事で事を解釈説明することになって居るから、事理の関係の上では、これ以上
の発達はなかるべきであると思われる。従って、日本仏教は今後如何に進歩せしむべき
かが、重大な問題となって居るといえよう。固より文化の発達には完成終末などのある
べき所以はないから、更に一層の進歩発達の飛躍が期待せられねばならぬ。従来の発
達から見れば、日本仏教は天台系統と真言系統と浄土系統と禅系統との四つに帰着す
るといえるであろう。細かにいえば、此の四に入らないものが存する如くであるが、発達
史の全体を通じて見、又現今の状態から考えると、此の四によって中枢的のものを尽く
し得るし、従って凡てを此の四に含ませ得るであろう。此の中で、天台系統は他の根幹
となった点が多いから、基たるものとして見て置くと、他の三系統中、真言系統は全仏教
を顕密二教に分って、結局全ては密教に入るべきものと見、浄土系統は全仏教を聖浄
二門となして、最後には一切は浄土門に帰すべきものとなし、禅系統はまた全仏教を教
禅二門に分ち、教の凡ては禅に含まれ終るべきものとなす各二分の教判を有する興味
ある点が認められる。これ等は、何れが取るべきものであるかについては論ぜらるべき
ものでなく、各々をして、自由活発に発展せしむものであり、しかすることによって、今後
の発達進歩に寄与することになって来るであろう。此の如くならむことを望むのは、決し
て啻に仏教の為のみのことではない。



 現代に於ける仏教の状態を見ると、一方に於いては実際社会に行われて居る方面と、
他方に於いては純粋学理的に研究して居る方面とに分つことが出来るであろうと思われ
る。前者は歴史的に変遷した制度や一切の事情に纏綿せられて居るから、幾多改革匡
正すべき点を有しながらも、簡単には変化せしめることは出来ないもので、これ等の実
際問題については今茲では指摘することすら之を避けよう。後者については少しく述べ
て見たい。
 我国ほど仏教研究に恵まれて居る所は他に全くない。単に資料の点から見ても、凡て
の大藏経は容易に読み得ることになって居る。大藏経はインド本土には古来纏められた
ことなく、而も現今としては経論は散逸し、存するものは極めて少ない。セイロンには存
するが、所謂小乗に属するのみで、他の部分のものが無い。従ってチベットとシナとにの
み存するが、それは何れも我国に完備して居る。我国では国語で現わした大藏経は造
られなかったが、古来漢訳大藏経が国語と殆ど同じように読まれるし、現今としてはチベ
ット大藏経もセイロンのパーリ大藏経も研究資料となり得るし、サンスクリットの経論も渉
獵し得るのである。広く、仏教を以て人類文化の発展を促進せしめるものと見れば、之
を研究しその意義を闡明することは、一に我国人の双肩に擔われて居る課題であるとい
えよう。従来インド、シナ、我国に於いて発達したものは、この課題に対する答えであっ
たには違いないが、然し、今後としては、猶一層突っ込んだ探求に進まねばならぬ点が
ある。
 我国の仏教は何というてもシナの仏教が基になって居るものであるが、シナ仏教はそ
の教相判釈で判るように、一種の理論組織の成心を持って居て、それを経論に読込む
傾向を有し、その成心に合するものを取り、又合する如くに解釈して、原経論のすなおな
意味趣旨を汲み取らない場合が少なくない。かかる読込みの上に教義が成って居る点
があるとすれば、それは原著者とは遠いもので、たとひ重要な意義があるにしても、今
後は、も一度読みなおすべきである。この読みなおしに於いて、原典の研究、訳文相互
の比較対象の研究が欠くべからざることになる。此方針で進めば、その研究の前には全
く新しい視野が開けるに相違ないであろう。
 然し、現今与えられて居る資料は、何れのものでも、悉く既に変遷を経た以後のもので
ある。この点に関しては疑いがないから、変遷以後といえば、どうしても変遷以前のも
の、変遷を来した基のものを考えるでなくば、変遷ということすらいえない道理である。茲
に於てか、仏教興起の時代のものが闡明せられねばならぬことになる。これは容易な事
業ではなかろうが、あらゆる努力を拂うて試みるべきである。そして之を起点となして歴
史的の線に沿うて進んで、凡ての分野に入る要があると思われる。かくして現われ来る
それぞれの資料のすなおな趣意を研究して行けば、全く新しい発達径路が明かにせら
れ得るであろう。此成果が今後の仏教のあり方を指示するものになるのであろうと考え
られる。此成果に基づいて実際社会に行なわれて居る方面の仏教の改革後世の方針を
も立つべきである。経論の中でも経は決して凡て理論的のことを論述して居るのでなく、
たとひ理論が含まれて居ても、表現は全く文学的であり、そこに汲めども尽きぬ程の興
味を有するものである。此方面を見ずに、殆ど無味乾燥の敍述なるかの如く扱うのは、
恐らく偏頗を免れないものであろうし、殊にシナに於いての訳文にのみたよるのは、止む
を得ない点であるにしても、今後としては改めねばならぬのである。従って仏教の研究に
は将来種々なる方面があって、大藏経の無尽の実藏であるというよう。


(宇井伯寿)








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